鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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音像、多聞天像)の独自性を強調した(注7)。要するに、これまでの多聞天像の位置付けは、唐招提寺講堂二天像を前提としており、その服制・姿態が天平盛期の造形を伝えていると指摘されてきたが、それ以上の考察が行われてこなかった。本研究は、まさに岩佐氏の提唱に触発され、多聞天像に形式と作風の両面から再考を加えたものである。1.多聞天像の基本的データ像高138.8cm、兜をかぶり、上歯をあらわし下唇を噛み、忿怒の相を示す。右手をあげ、左手を腰に当て、右足を上げて岩を踏む。鰭袖、窄袖(後補)、大袖(後補)、裙、袴をつけ、甲をつける。岩座までを含むカヤ材の一木造りで、背刳りを施し、上背部の左右と下背部に蓋板を当てるが、背刳りが当初からのものかどうかは不明である。鼻、右手の肘から先、左手は上膊半ば(獅噛の鼻付け根あたり)から手首にかけての線の外側、左手第2指から第5指、背刳りの蓋板、背面裳裾垂下部のすべてが後補である。像表面は現状素地をあらわす(注8)。なお、多聞天は寺伝の名称で、もとの尊名を再検討する必要があるが、本研究では、寺伝の名称に従う。2.形式に関する検討形式の検討では、主に多聞天像の甲制を考察する。多聞天像は下甲、表甲を着けた上で、表甲正面の合わせ目を前楯で覆い、胸部に胸甲を当てる。その基本となる甲制は、日本特有のいわゆる「天平甲制」である(注9)。しかし、その表甲は正中の切れ目をごくせまくして、胸下に横方向に連なる甲の縁をあらわすところには、8世紀中葉の唐代着甲像の新形式からの影響が認められ(注10)、錣を折り返した兜をかぶっていることや編靴を履いていることなどは、鑑真渡来以降の新たな形式であると指摘されている(注11)。つまり、多聞天像は、新たな形式を積極的に受容していることが認められる。以下、これまでの先行研究によりながら、多聞天像の表甲、胸甲、肩甲、甲締具、腰甲を取り上げて改めて検討する。(1)表甲多聞天像の表甲〔図4~6〕は、背面から両腰周りまでを覆い、正中線で合わせ、表甲背部の上端が肩を跨いで胸甲とつながっている。表甲は、覆輪が紐-玉繋-紐、界線が紐2条の意匠をとる。一方、胸甲左右の下層に表甲と同様な覆輪と界線の意匠を持つ甲の甲縁がみられ、さらに腋下にもう1つの甲の覆輪(紐1条)と界線(紐1条)が確認できる。― 311 ―― 311 ―

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