鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 例えば、金子啓明、岩佐光晴、能城修一、藤井智之「日本古代における木彫像の樹種と用材観─七・八世紀を中心に─」『MUSEUM』555号,1998年,29~30頁。岩佐光晴『平安時代前期の彫刻 一木彫の展開』『日本の美術』457,至文堂,2004年,27~28頁。閻志翔「大安寺十一面観音像の唐風受容と彫刻史的位置づけについて─神福寺十一面観音像との比較を中心に─」『美術史』194冊,2023年など。⑵ 小林剛「大安寺の木彫群に就いて」『東洋美術』15号,1932年。⑶ 田邉三郎助「四天王立像」『大和古寺大観 3』岩波書店,1977年,75~77頁。4.まとめ以上の形式と作風の両面における考察を総括すれば、大安寺多聞天像は、東大寺法華堂執金剛神像や乾漆護法神群像をはじめとした、8世紀中葉の官営工房によって制作された東大寺の塑造や乾漆造の神将像との強い類似性が新たに指摘できる。その一方、これまでに指摘されているとおり、大安寺多聞天像は、唐招提寺講堂二天像、特に伝増長天像との類似性を具体的に確認することができ、新たな唐風表現からの影響も強く認められる。ここで、大安寺多聞天像は、在来の形式と作風に基づきながら、新渡の唐風を積極的に受容している姿勢が具体的に指摘できたと思われる。本研究で明らかにした大安寺多聞天像と8世紀中葉以来の東大寺の塑造や乾漆造の神将像との類似性は、多聞天像の作者がそれまでの官営工房によって制作された捻塑像を熟知していたことを物語っている。奈良時代の大安寺は、一大官寺でありながら、渡来僧や入唐僧が多く止住し、国際性の強い場所であった。多聞天像にみられる特徴は、この特別な制作環境に関係している可能性が高い。そして、本研究で進めた多聞天像の再考は、今後、持国天像以下3体の天王像を考察する新たな基盤となるだろう。はじめに述べたように、岩佐氏の度重なる提唱を契機に、現在、大安寺木彫像への再評価の機運が高まっている。これまでに大安寺木彫像が唐招提寺木彫像を前提に出現するものとして理解される見方を再検討することは、もちろん重要だが、本研究から考えれば、8世紀後半の木彫像成立の大きな流れの中で大安寺木彫群像を再評価すべきであろう。すなわち、鑑真渡来によってもたらされた大陸の影響をいかなる姿勢で受容するか、という視点をもって大安寺木彫群像を検討することは、これまでの位置付けを再評価する重要なポイントとなる。しかし、大安寺木彫像は一具の制作ではないことや、平安時代初頭の制作かとみられる像(不空羂索観音像、広目天・増長天像)があることから、今後、大安寺木彫像の成立過程を考える際に、平安時代前期までの彫刻史の動向も視野に入れる必要がある。― 316 ―― 316 ―

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