の神殿奉献》(1640年)では、ヴーエはヴェネツィア派、とりわけヴェロネーゼの作例を主に参照している(注15)。しかしながら、帰国直後のサン゠ニコラ゠デ゠シャン聖堂の《聖母被昇天》においては、とりわけローマの画家の影響が強いと言える。すなわち、画家としての地位の正統性とローマで獲得した名声をパリの新しいパトロンに示すために、意図的に絵画制作にローマ的要素を取り入れていたことが考えられるのである。この思想が表れている例として、ヴーエの二枚の肖像版画がある。一枚目は、アンソニー・ヴァン・ダイクによって1630年頃に制作された肖像画に基づいてロベール・ヴァン・ホルストによって1634年頃に版刻されたものである〔図6〕(注16)。画家は横向きに腰掛け、書物を片手に持っている。版画の下部には、ラテン語で「シモン・ヴーエ、パリ出身の国王首席画家。雄大な歴史画を描く者」と刻まれている(注17)。彼が手に持っている書物は、ロマーノ・アルベルティ著『絵画の高貴さについて』と同定されている〔図6-1〕(注18)。1585年に刊行されたこの書物は、フェデリコ・ズッカリが1593年に最初の院長を務め、ヴーエが1624年に院長に選出された、ローマのアッカデーミア・ディ・サン・ルーカの基礎概念となっていた(注19)。アルベルティの著作は、1582年に刊行されたガブリエーレ・パレオッティ枢機卿による『聖俗画像論』に強い影響を受け、同アカデミーが掲げた「自由学芸としての芸術」を主張する書物である(注20)。絵画理論をキリスト教的見地から論じたこの書物をヴーエが肖像画において持っていることは、ローマのアカデミーにおいて彼が院長を務めていたことの明白な暗示である。また同時に、彼がかつてはローマで、現在はパリで宗教的な権威ある注文を請け負う画家であることを示していた(注21)。二枚目のフランソワ・ペリエ版刻の肖像版画(1632年)では、ヴーエの芸術家像が寓意を用いてより詳細に表されている〔図7〕(注22)。画家の肖像を囲むオーバル型の額縁には「シモン・ヴーエ、パリの画家」と記載されている(注23)。画家を囲む二人の女性像は、左手に名声を表すトランペットを持ち、足元には豊穣の角がある。作品の右の女性像は彫像(キリストの磔刑像)、コンパス、定規を持ち、左の女性像は絵筆、パレット、絵筆を持つ手を支える腕杖を持つ〔図7-1〕(注24)。それらは「絵画・彫刻・建築」を象徴するモチーフである。豊穣の角の先には、半神ヘラクレスが討伐したネメアーの獅子の毛皮が掛かっている。この毛皮は、創造者たる芸術家は、ヘラクレスと同様、神と人間の中間に当たることを示す(注25)。この毛皮に書かれた銘文の読解によってこの版画の意図はより明確になる。ここには、ラテン語で「あなたのライバルである自然が神を表すように、芸術もまた自らの― 325 ―― 325 ―
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