創造者を描き出すことができる。」と刻まれている(注26)。このヴーエの肖像版画におけるテーマは、フェデリコ・ズッカリ著『画家・彫刻家・建築家のイデア』を念頭に考案されたと思われる(注27)。ペリエの銘文の後半部の「芸術もまた自らの創造者を描き出すことができる」という文言は、ズッカリが同書で提唱する「内的素描」、すなわち神との類似性の徴を示している(注28)。この神との類似性というのは、画家を神格化するという意味ではない。フェデリコが第七章において述べているように、人間の内的素描は偶発的かつ感覚に由来するが、神には偶発的なものはなく、正しく唯一の素描を持つという明確な違いがある。ペリエの版画の銘文にある「あなたのライバルである自然」については、フェデリコが「技芸は自然の模倣者であり、競争者である」と述べていることに一致する(注29)。神は人間のうちに知的な内的素描の能力を与えたが、それはこの能力によって人間が「神を模倣し、自然と競合することで自然に似せた人工物を数限りなく作り、絵画や彫刻といった手段によって地上に新たな楽園を現すため」であった(注30)。絵画、彫刻、建築を示すアトリビュートが画家の周囲に表されていることと、銘文の言及を合わせて考えると、ペリエ版刻の版画の銘文はズッカリの掲げた理念にきわめて近いものである。結論本論考では、シモン・ヴーエ作、サン゠ニコラ゠デ゠シャン聖堂の主祭壇画《聖母被昇天》について、先行作例との比較を通じて新しい視覚的着想源を指摘した。そして、帰国後最初の公的な作品の制作において、ズッカリというローマの画家の作品を参照した可能性が高いことに注目し、彼の肖像版画の分析を進めた。この分析は、手紙をほとんど残さなかったために、どのような画家なのかを知ることが困難である彼の画家像を知る貴重な手がかりとなった。ヴーエが目指した画家像の問題は図像の借用と完全に結びつくものではないが、帰国直後の数年間において、彼がズッカリを特に意識していたことは確実である。本国フランスにおいて、アンドレ・フェリビアンの批評以降ヴーエは無知な画家であるとされてきたが、実際は深い知識を持ち、神学に通じた画家であったという再評価が現在進んでいる(注31)。本論考もこの研究動向の線上に位置するものである。ヴーエの作品における、神学・図像学的考察の発展によって、今後もこの画家の知的側面がさらに明らかになっていくだろう。― 326 ―― 326 ―
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