鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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⑾ 以下を参照。Jacques de Voragine, ■■■■■■■■■■■■■■■■, Paris, Seuil, (13e)1998, p. 497 « Pendant France, 1957, t. 2, p. 615-635 ; W. Brückner, « Himmelfahrt Mariens », ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Rom, Freiburg, Basel, Wien, Herder, 1970, t. 2, p. 276-284.ce temps, trois vierges, qui se trouvaient là, dévêtirent le corps pour le laver ».⑿ リバネデイラは、三人の女性に関して言及していない。Ribadeneyra, ■■■■■■■■■ p. 470-479.⒀ 聖堂は1558年に完成。この礼拝堂の最初の注文主はフィレンツェの枢機卿であるロレンツォ・プッチ(Lorenzo Pucci, 1458-1531)である。プッチはまず、ペリーノ・デル・ヴァガ(Perino del Vaga, 1501-1547)に1520年頃この礼拝堂の装飾を依頼したが、1531年の枢機卿の死により礼拝堂は相続を放棄され、ヴァガの装飾は未完となった。ヴェネツィア出身の聖職者であるジャコモ・カウコ(Giacomo Cauco, d. 1565)が1562年にこの礼拝堂を取得。1564年から1566年にかけてタッデオがこの礼拝堂の装飾に携わった。1565年にカウコが死去したが、礼拝堂の相続が遺言で決まっていたため、タッデオは自身が死去する1566年まで制作を続けた。1589年にフェデリコによって完成。以下を参照。Georgios E. Markou, « Taddeo Zuccaro and the Pucci Chapel in Santissima Trinità dei Monti, Rome », ■■■■■■, vol. 39, no. 4, 2020, p. 241-251 ; Cristina Acidini Luchinat, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Milano e Roma, Jandi Sapi, t. 1, p. 266-274.⒁ ヴーエはローマ滞在時、結婚前はほぼ毎年住居を変え、1626年に結婚した後はvia Ferratina(現在のvia Frattina)に住んだ。この通りからトリニタ・デイ・モンティ聖堂までは徒歩5分ほどである。Jacques Bousquet, « Documents sur le séjour de Simon Vouet à Rome », ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ʼ■■■■■■■■, 1952, p. 298-299.⒂ サン゠トゥスタシュ聖堂主祭壇の作例におけるヴェロネーゼの作例の参照は以下拙稿を参照。伊藤里華「シモン・ヴーエ作《聖エウスタキウスとその家族の殉教》─様式上の霊感源の問題を中心に─」『東京藝術大学美術学部論叢』20号、2024年、5-20頁。⒃ 絵画作品は消失。この肖像版画は、同じく書物を持つニコラ・プッサンの1650年の肖像画に影響を与えた作例として知られる。フュマロリによる論考を参照。Marc Fumaroli, « Une iconophilie gallicane. Rome-Paris, 1640 », dans Cat. expo., ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Rome, Académie de France à Rome, 2000, p. 27-45.⒄ 原文は以下の通り。« SIMON VOUET / PARISIENSIS PRIMVS GALLIARVM REGIS PICTOR / HISTORIARVM IN MAIORI FORMA »⒅ Romano Alberti, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Roma, Francesco Zannetti, 1585.⒆ ローマのアッカデーミア・ディ・サン・ルーカは1577年にジローラモ・ムツィアーノ(Giroamo Muziano, c.1532-1592)によって設立され、同年に教皇グレゴリウス13世によって認可された。シモン・ヴーエと同アカデミーに関しては以下を参照。La Blanchardière, « Simon Vouet, prince de l'Académie de Saint-Luc », ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, (1972)1973, p. 79-90.⒇ 『聖俗画像論』に関しては以下を参照。Gabriele Paleotti, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Bologna, Alessandro Benacci, 1582 ; Gabriele Paleotti, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, in Paola Barocchi (a cura di), ■■■■■■■■■■ʼ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Bari, Gius. Laterza & Figli, (1582)1961 ; Gabriele Paleotti, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, translation by William Mccuaig, Los Angeles, J. Paul Getty Trust, (1582)2012 ; ガブリエーレ・パレオッティ『聖俗画像論(抄)』高橋健一(訳)『原典 イタリア・ル― 328 ―― 328 ―

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