鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
347/712

~1037)や、副使であり現場の指揮にあたった大宦官劉承規(949~1012)らによる主導があったことを指摘してきた。こうした南唐・呉越の遺臣たちが建国当初から、芸術事業の全体像を把握する者として、あるいは造形上のオーガナイザーとして、決定的な役割を果たしていたことは、北宋後期の新興受容層ともいうべき文人士大夫といった観者と差異化されるべきであろう(注3)。では、作り手側と作らせる側がいかに意思疎通し、なぜ両者の関係性が北宋前期を象徴し得るのか。本稿では、画家と為政者のあいだで具体的なヴィジュアルコミュニケーションとして機能した小様に着目する。小様に関する先行研究については、小様そのものを論じたものではないものの、塚本麿充氏による大相国寺壁画の研究のなかで、およそ同等のものとして「小本」「様」と呼ばれたものを下絵類とし、文化資源のひとつとしてこうした図像を宮廷が管理していくことが権威の象徴であったとの言及がある(注4)。本稿ではこうした平面図としての機能に加えて、「小様」が小さな模型をも意味し、かつ北宋前期の作り手にとって、制作のための絵手本ということ以上の問題があったことを提示する。はじめに、屋木門画家の記述にみられる小様について、「劉文通、京師人。善画楼台屋木。真宗時入図画院為芸学。大中祥符初、上将営玉清昭応宮、勅文通先立小様図、然後成葺。丁朱崖命移写道士呂拙鬱羅蕭台、仍加飛閣於上、以待風雨。画畢、下匠氏為凖。謂之「七賢閣」者是也。天下目為壮宋劉道醇 『聖朝名画評』巻三、屋木門観。」 (書き下し)劉文通、京師人。善く楼台屋木を画く。真宗時図画院に入り芸学となる。大中祥符初、上将に玉清昭応宮を営せんとするに、文通に勅して先んじて小様を立て図さしめ(小様図を立てさしめ)、然る後に葺を成す。丁朱崖、命じて道士呂拙の鬱羅蕭台を移写せしむるに、仍お飛閣を上に加へ、以て風雨を待つ。画畢はりて、匠氏に下して準を為さしむ。之を「七賢閣」と謂ふは是れなり。天下目して壮観と為す。ここで注目されるのは、存在している建築物を画にすることしか一般的に想定されてこなかった画家が、造営が始まる前に小様を用いて作画を行い、それによって完成形やその理念が共有され、実際の建築に移っていたという事実である。「然る後に葺― 334 ―― 334 ―

元のページ  ../index.html#347

このブックを見る