鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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を成す」は実際に建築を行った意で、玉清昭応宮を造営する際に、劉文通が皇帝の命をうけて、まず「小様を立て」て(あるいは「小様図を立て」と書き下し、設計図のようなものであったと解釈するにしろ)、そのあとに実際の建築を行ったという。そして、劉文通に呂拙の鬱羅蕭台を移写するように命じるなど、その具体的な様式を決定し画家に直接指示していくのは、前述した丁朱崖(丁謂)であった。屋木門の画家による絵画化が、大造営事業において果たした役割の重要性は、小様の役割と併せて見直される必要がある。「立」や後述する「造」といった三次元的な感覚に近い動詞が使われていることから、実際に模型をつくったにせよ、それが画家の脳内で行われたにせよ、屋木門の画家たちと丁謂らが、理工学的な専門知識をもって三次元的な世界で対象の総体を把握していたこと窺える。こうした描かせる側と描く側のヴィジュアルコミュニケーションとして機能した小様が模型であった可能性は、聖朝名画評で神品に挙げられた郭忠恕の逸話に伝えられる。「郭忠恕画殿閣重復之状。梓人較之、毫釐無差。太宗聞其名、詔授監丞。将建開宝寺塔、浙匠喩皓料一十三層、郭以所造小様末底一級折而計之、至上層余一尺五寸、殺収不得。謂皓曰「宜審之。」皓因数夕不寐、以尺較之、果如其言。黎明、叩其門、長跪以謝。 」 宋僧文瑩『玉壺清話』巻二(書き下し)郭忠恕殿閣重復の状を画く。梓人之を較ぶるに、毫釐も差うこと無し。太宗其の名を聞き、詔して監丞を授く。将に開宝寺の塔を建てんとするに、浙匠喩皓一十三層を料り、郭(郭忠恕)は造る所の小様を以て末底一級より折して之を計るに、上層に至りて一尺五寸を余し、殺收することを得ず。皓に謂ひて曰く「宜しく之を審らかにすべし」と。皓因りて数夕寐ねずして、尺を以て之を較ぶるに、果たして其の言の如し。黎明、其の門を叩きて、長跪して以て謝す。呉越の建築家であった皓が設計していた開宝寺塔の計算ミスを、郭忠恕が指摘する場面である(注5)。建築史において田中淡氏は、模型制作がさらに精密度を増したことを示す例としてこの逸話を引用されている(注6)。郭忠恕が「造」った「小様を以て」、「一尺五寸を余し」と明確な数値が出る「計」り方で、最下層から丁寧に数え直していくと、計算が合わず層ごとの逓減がぴったり収まらなかったという。「毫― 335 ―― 335 ―

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