釐も差うこと無」く、郭忠恕が建築家にも優るほどに理工学的な専門的知識を有しながら作画をおこなっていたであろうことは、「雪霽江行図」〔図2〕といった現存作品からも窺える。船体の木組みの複雑な構成や、随所にはめ込まれた木版のデザインまで徹底的に描きだされ、船上の人物たちがどの部分をどのように動かせば船が動くのか、それまで分かっているように描述されている。これら二人の屋木門画家の記録からは、小様の意味合いが、図様集というよりはやはり建設のための三次元性の高い設計図あるいは模型であり、建築の過程において重要な役割をもっていたことが知れる。2、ヴィジュアルコミュニケーションとしての小様の機能さらに、建築の過程における小様の用例から、描かせる側にとっての小様の機能を鑑みると、「政和明堂 五年七月十日、詔曰、朕刺経稽古、度以九筵、分其五室、通以八風、上圜下方、参合先王之制。相方視址、于寝之南、僝工鳩材、自我作古。八月壬子、以明堂小様於崇政殿宣示百官(御書、明堂字)。七年六月、明堂成、御製「上梁文」及「明堂頌」。(後略)」 宋王応麟(1223-1296)『玉海』巻九六(書き下し)政和明堂 五年七月十日、詔に曰く、「朕経を刺(もと)め古を稽(かんが)へ、度(はか)るに九筵を以てし、其の五室を分かち、通ずるに八風を以てし、上圜下方、先王の制に参合す。方を相(み)て址を視(しめ)し、寝の南に于いて、工を僝(そな)へ材を鳩(あつ)め、自我古を作す。」八月壬子、明堂の小様を以て崇政殿に於いて百官に宣示す。七年六月、明堂成り、「上梁文」及び「明堂頌」を御製す。」徽宗皇帝(在位1100~1126)の時令思想に基づく儀礼が行われた明堂の建築に関して、五年に詔があり建設が命じられ、二年後の七年に完成している。この間に、明堂の小様は崇政殿において百官に宣示されたという。この記録では、小様は模型とは限らず、皆が見えるようなやや大きめの設計図を壁に立て掛けたような場合も想定され― 336 ―― 336 ―
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