鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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るが、少なくとも小様は注文者や大勢の観者との間で、様式が調整される機能があったことが知れる。「章献明粛皇后遣殿中使脩建。用玉清昭応宮別殿小様将成、羨材尚多。中使謂主観道士曰、当為奏陳別建道院於東偏。道士唯唯而已。他日復言之、又不対。中使不懌、遂已。道士者、惜不知其姓名、必賢者也。」 宋施宿(1164~1222)『会稽志』(書き下し)章献明粛皇后殿中使を遣はし脩建せしめんとす。玉清昭応宮別殿の小様を用ひ将に成らんとするも、羨材尚ほ多し。中使主観道士に謂ひて曰く、「当に奏陳を為し別に道院を東偏に建つべし」と。道士唯唯(いい)のみ。他日復た之を言ふも、又た対へず。中使懌(よろこば)ず、遂に已む。道士なる者、其の姓名を知らざるを惜しむも、必ず賢者なり。また、真宗の皇后であり、のちに仁宗(在位1022~1063)を擁して垂簾聴政を行う劉太后(在位1013~1022)が玉清昭応宮を脩建する際にも、玉清昭応宮別殿の小様が先ず用いられている(注7)。屋木門画家たちが多く採用された玉清昭応宮の造営における小様の意味合いが、百官に示されたように専門外の人も含め、皇帝から一般的に身分の低い屋木門画家といった身分差や、事業に携わる異なる分野の専門家どうしの垣根を超えて非常に明確なイメージとして共有されなければならないものであったことが窺える。さらに、こうした屋木門画家の周辺で用いられた小様に関する史料のほか、屋木のモチーフの小様が模型であることを示す例として、「凖自鳴鐘推作自行車図説曽製小様、能自行三丈。若作大者、可行三里。如依其法重力垂尽復斡、而上則其行当無量也。」 明王徴(1571~1644)『奇器図説』卷三(書き下し)曽て小様を製し、能く自ら行くこと三丈。若し大なる者を作れば、行くこと三里なるべし。如し其の法に依らば、重の力尽くるに垂(なんな)んとして復た斡(めぐ)り、而して上則ち其の行くこと当に量ること無かるべきなり。― 337 ―― 337 ―

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