鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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宣教師鄧玉函(1576~1630)の口授を明の王徴が漢訳した技術書では、車がどれほど進むか、小型の模型〔図3〕のサンプルを用いて実験している。小様には平面図と模型のどちらもあり、制作過程において平面図と模型をふたつながらに用いる繰り返しのなかで、ある時点から平面図だけで済むようになる。例えば『営造方式』は、第七代哲宗(在位1086~1100)の勅命により将作少監の李誡(?~1110)が編纂した官撰の建築技術書で図面が付戴されている(注8)。北宋後期に至り、こうした図様集から立体を再現できるような基盤が用意される以前のこと、建国当初の小様において模型の担う役割は大きかったはずで、模型を作るという行為自体もまた、可能なものとして納得し実現に進む北宋の建国期の精神を象徴するものであろう。ここで注目されるのは、山の小様も存在していたことである。「紫桃軒雑綴唐有浄尼、出奇思。以盤飣簇成山水、毎器占輞川図中一景。人多愛玩。至腐臭不忍食。又呉越戚里孫承祐者、豪奢炫俗、用竜脳煎酥製小様驪山。水竹屋宇橋梁人物。繊悉具備。戊寅春、鶴舞橋賽神。以甘蔗一百二十余根、塁成山水、以粉為人清褚人穫 (1635~1682)『堅瓠廣集』巻一、盤飣山水物。(後略)」 (書き下し)唐に浄尼有り、奇思を出だす。盤飣簇を以て山水を成し、器每に輞川図中の一景を占む。人多く愛玩す。腐臭に至りて食らふに忍びず。又た吳越戚里の孫承祐は、豪奢炫俗なり。龍脳煎酥を用いて小様の驪山を製す。水竹屋宇橋梁人物、繊悉にして具備す。戊寅春、鶴舞橋の賽神、甘蔗一百二十余根を以て、塁ねて山水を成し、粉を以て人物を為す。さまざまな人々が身の回りの食べ物を用いて景観をつくる話が続くなかで、龍脳で香りづけた煎酥で小様の驪山(陝西省)が製られている。重要なことは、北宋前期という山水画の試行期において、こうした小様を扱う者たちが山水画の制作に関わっていたことである。小様を用いることで得られた視界は、山水画史において如何なる成果としてあらわれ得たのか。― 338 ―― 338 ―

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