以て深坑中に置き、其の上に臨みて之を瞰めば、則ち花の四面は得らる。」(注10)という把握の仕方は、屋木門の画家たちによる小様を用いた視界の獲得と類似した作業とも捉えられる。深坑の中に花を置いて上から見下ろすと、花の姿は外界や背景から切り離されて孤立し、花の全体の姿が捉えられる。模型を作った場合にも、掌上に前後左右から対象の四面を得られることが重要で、こうした視界の獲得は、単純にその目線から見えるように描けるようになるということ以上に、視界を得ることで、認識が変わり、ものの本質を描けるようになる。こうした北宋後期における郭熙の意識的な作業に対し、屋木門の画家たちはむしろ建国期の多様な観者に示すために正確に描かねばならぬ必然性から小様を用い、その結果として四面が得られ、一つのモチーフとして整合性をもって山水画の画面に描きこむことができたのであろう。沈括の言説はすでに、北宋前期の絵画観から変容した文人士大夫が活躍した時期にあたるものの、建国期のいわば文理融合的な感覚をよく伝えている。なぜなら、よく知られた沈括の董巨評が焦点距離の問題であるように(注11)、沈括は司天監であったことから模型を用いて天文暦法についての諸研究を発展させ、水利事業の担当者であったことから地形測量や地図制作の諸知識を備え、こうした理工学的知識を持った官僚としての背景から、科学者としての身体的な把握をもって山水画を語るからである。こうした点は上述した屋木門画家の支援者である、度量衡の改革を行った宦官劉承規や宰相丁謂と共通する山水画の見方であろう。興味深いことに、沈括は勅命をうけ地図を制作する際に模型を用いている。まず山川を踏査し、図面化する前に、麺糊(のり)と木屑で地形を写したといい(注12)、最古の地図模型であったことが指摘されている(注13)。丁謂が地図制作を担った際にも画工が関わっており(注14)、建築物や地図の作成において、縮尺を工夫し、描かせ方を画家に指示していく際、彼らの視界やものの見方を正確に画家に伝えるために、模型の小様はよく機能したと考えられる。建国期において重視された地図の編製において、まず各地方の地図を集めて、天下の図として都で再生産する行程は(注15)、地理的に異なる由来の山容モチーフと様式が集約され一図に収められていく前期の山水画における試行とも重なる。こうした山水画制作に関わる為政者と画家がともに共有していたはずの、造営事業や地図制作といった周辺の視覚イメージに拡げて鑑みると、やはり小様が皇帝、官僚、画家をつなぐヴィジュアルコミュニケーションとして重要な機能を持っていたことは明らかである。北宋前期において山水画の画面構成が飛躍的に発展した背景にある社会的要因の一つとして、上述してきた身体を基準とする対象把握の仕方や模型を平面図にする工程に慣れた為政者と画家の存在が想定されてよいだろう。― 340 ―― 340 ―
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