鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 本稿は建国期の文脈から北宋前期の山水画を再考する。北宋(960-1127)に先立つ五代十国時代、南唐(937-975)や蜀(934-965)では宮廷画院が設けられ各地で絵画様式が形成され、北宋前期にはこうした亡国の官僚や画家が統一国家としての北宋の都開封に集約され、北宋社会を表象する新しい山水画が試行されていた。こうした北宋前期までは、亡国の優秀な人材たちが北宋に仕え、芸術事業の担い手となっていた。⑵ 屋木という画題自体は唐時代にすでに登場する。『歴代名画記』において図面のような無機質な性質は低級なものとして扱われたのに対し、建国期の実利主義的な気運のなか、国家をあげての造営事業との兼ね合いで、屋木という描かれる対象そのものの価値が上がり、屋木が絵画化される意義は向上し、屋木門という絵画ジャンルの内実は変化したと考えられる。⑷ 塚本麿充「皇帝の文物と北宋初期の開封(上)(下)─啓聖禅院、大相国寺、宮廷をめぐる文物とその意味について─」『美術研究』404、406、2011、2012。塚本麿充「宋代絵画の様式・技法と材料」『宋代とは何か─最前線の研究が描き出す新たな歴史像』アジア遊学277、勉誠出版、2022。⑶ 拙稿「五代・北宋前期における屋木門の画家たち─燕文貴「江山楼観図巻」の理解にむけて⑸ 喩浩は呉越の建築家であり、銭弘俶が宋へ国を献じたのが太平興国三年、郭忠恕は太平興国二年には卒しているため史実と矛盾し、郭忠恕の屋木画を讃えるため喩浩と結びつけられたと考えられる。(郭湖生「喩浩」『建築史』3、1980)⑹ 田中淡「比例寸法単位「分」の成立」『中国建築と庭園』中央公論美術出版、2023。また本稿の問題提起や「様」への関心は、「討論一─建築史学と美術史学」『日本における美術史学の成立と展開』東京国立文化財研究所、2001から示唆を得た。⑺ 羨材(余った材料)が多いので別の道院を建てるよう命じられたのにも関わらず完成しなかった結果に対し、道士を賢者なりと評価する不自然なストーリーについては、仁宗朝における玉清昭応宮をめぐる価値観の転換が原因と考えられ得る。劉皇后の政策をめぐる価値観の変遷については、久保田和男「玉清昭応宮の建造とその炎上─宋真宗から仁宗(劉太后)時代の政治文化の変化によせて」都市文化研究12、2010。⑻ 竹島卓一『營造法式の研究』中央公論美術出版、1970。梁思成『營造法式註釋』北京、中国建おわりに紙幅の都合上、本稿で引用できる史料は限られ、北宋期における「小」と「様」をめぐる問題はふたつながらにさらなる検討が必要である。各々、楼閣山水と宋代園林や宋代における「様」の形成といった重要な問題が小様の用例の検討から惹起される。本稿では、北宋前期の山水画を、北宋後期を説明するための予定調和的な様式論から語るのではなく、建国期という時代の必然性のもと、制作過程において造形上の困難を乗り越えていくために、観者と画家が高いレベルで相互にイメージを共有していたことを、小様の存在とその機能から明らかにした。─」『デアルテ』39、九州藝術学会、2023。築工業出版社、1983を参照。― 341 ―― 341 ―

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