1950年代後半:「白い魔魚」から「噴水」まで発見された下絵は、使用画材によって大まかに3つの時期に区分できる。最も制作年代の古いものがこの「白い魔魚」から「噴水」までである。この時期の下絵はすべて、コート紙のようなつやのある紙にインクで描かれていた。「白い魔魚」の下絵で特徴的なのは、技法に関して多様な実験の痕跡がみられる点である。例えば、原画にも引けを取らないほどよく描き込まれた第105回の下絵〔図1〕は、顔料のべた塗りをひっかくことで暗闇に浮かび上がる背景や人物の輪郭線を表現している。これは、「白い魔魚」の頃に小磯が新たに挿絵に用い始めた技法である。実際に掲載された挿絵では、画面全体にインクを吹き付けることで夜闇を表現しているが、これも当時用い始めたばかりの技法である。このインクの吹き付けについては、他の下絵の裏面に試し描きが見つかっており〔図2〕、挿絵に用い始めたばかりのさまざまな技法の扱いを模索していた様子が窺える。また、「白い魔魚」の下絵の中でひときわ興味深いのが第184回〔図3〕である。注目したいのが、枠外右に書き込まれた「第一八四回」の文字。小磯による挿絵原画の多くには、このように枠外に小説の回数が書き込まれている。右下にサインも記されていることから、本図は原画として提出される完成作であった可能性が非常に高い。しかし、実際に掲載された挿絵は本図とは異なっている。一度完成を迎えた挿絵を、小磯は何らかの意図をもって描き直しているのである。このような描き直しは、「白い魔魚」の他に「人間の壁」や「女の勲章」、「青春のお通り」にも確認でき、決して珍しいことではなかったようだ。中にはかなり大胆に構図を変更している図も見られる。「新聞の連載の時などは、いつも新聞記者の方が隣で待っていられて……。今のようにFAXなどない時代でしたから、原稿が遅れるとそれだけ締切りに追われるんですね。」(注4)と次女の嘉納邦子氏が回想しているように、毎日掲載で時間に追われる新聞小説の挿絵という仕事においても、よりよいものを追求していたことが伝わってくる。「五木哀歌」及び「零の記」は、1956年に『週刊朝日』に掲載された読み切り小説である。特筆すべきは、「五木哀歌」の下絵2点の裏面に、「白い魔魚」第262回と最終回の下絵が描かれていたことである〔図4、5〕。表面と裏面の下絵同士に内容の関連は見られないため、掲載時期の近かった二作の下絵が偶然表裏に描かれたのではないかと考えられる。― 23 ―― 23 ―
元のページ ../index.html#36