鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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を含む日本の前衛アーティストの先駆者グループがネオ・ダダを結成していた。東松やネオ・ダダの反芸術世代は、戦争の影の中で成長し、彼らの青春は深刻な貧困と社会規範の大きな変化によって特徴づけられていた。彼らの幼少期の経験は、荒れ果てた野原で遊ぶ戦争の傷跡に満ちており、教育を通じて新しい民主主義の原則が教え込まれた(注13)。この集団は、工藤哲巳(1935-1990)や三木富雄(1937-1978)、さらに建築家の磯崎新(1931-2022)などを含むより大きなネットワークの一部であった。彼らは、磯崎の設計で吉村が1958年に建設した新宿のホワイトハウスに集ったが、この建物は1962年まで彼らの本拠地となった〔図6〕(注14)。ネオ・ダダは、ダイナミックで実験的な方向性で称賛され、1960年には一連の活発な展覧会を企画し、即興のストリートパフォーマンスを頻繁に行った。さらに彼らはホワイトハウスで、美術パフォーマンスと社交的な集まりを融合させたイベントを主催した。オフィスが近くだったことから、東松の出席にもつながった。ネオ・ダダは、1960年4月に銀座画廊で開催された初の展覧会を宣伝するために、独特な外見で際立ったことで大衆の注目を集めることを目指し、東松は彼らのストリートパフォーマンスを記録する役割を果たした〔図7〕。ネオ・ダダによる公式展覧会はわずか三回にとどまったが、吉村はイベントのために革新的なパフォーマンスを披露し、自らにチラシを巻いて銀座の街を練り歩くことで、アートとアクティビズムを型破りな方法で融合させるという彼らの献身を視覚的に強調した(注15)。パフォーマンス・アート東松は1960年のネオ・ダダとの共作に続き、土方巽が主催するプロジェクトに参加した。1959年、土方は650EXPERIENCEの会の一環として、「9月5日6時の会・6人のアヴァンギャルド」と呼ばれるパフォーマンスを企画した〔図8〕。650という数字は第一生命ホールの収容人数を示し、公演のタイトルはイベントの具体的な日時を示すだけでなく、この機会のために特別に集まった6人の前衛芸術家の集結を意味している(注16)。翌年には「第2回6人のアバンギャルド」が開催され、最初の集まりとは大きく異なる新たな参加者で構成された〔図9〕。このイベントには、黛敏郎(1929-1997)、東松、寺山修司(1935-1983)、土方、金森馨(1933-1980)、三保敬太郎(1934-1986)などが参加し、東松の16ミリフィルム〈ヒコーキ〉や寺山のアンチシアター〈猿飼育法〉といった斬新的な作品が含まれていた。この時期、土方は寺山と親しくなり、1956年以来「10人の眼」展を通じて東松と親交のあった細江英公(1933-)から土方が東松に紹介された。東松の作品には、アメリカのジェット機が空― 349 ―― 349 ―

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