を飛び回る短編映画があり、サウンドトラックにはソニー・ロリンズが使用されていた。また、パンフレットには東松の詩「デュエット」が添えられ、さらに三島由紀夫(1925-1970)、瀧口修造(1903-1979)、澁澤龍彦(1928-1987)らの記事も含まれていた。おばあの亡骸は、すっかり片付きました。そこで二人は、骨のなかから比較的長い反のきいた奇麗なやつを選びだし、そいつで太陽を─解体した古自転車の車輪を棒ぎれでころがすようにして─おばあの骨で太陽を、地平線の彼方へころがしていきました(注17)。東松の詩は、象徴的かつ幻想的要素を統合し、死や時の流れを描くとともに、これらのテーマに対する子供たちの無垢でありながら深遠な理解をも表現している。一方で彼の詩は暗黒舞踏やアヴァンギャルド芸術が好むテーマと共鳴し、他方で彼の映画はアメリカのジェット機というメタファーを通じて、占領とアメリカ化に結びついた幼少期の経験を反映している。それについて、東松は次のように述べている。等身大の鏡を寝室の窓辺に寄せ、鏡面の角度を空に合わせて、寝そべったまま敵機襲来を待ち受け、夜のステージで演じられる光のページェントを楽しむようになった。(略)光のページェント、それは日本の負けいくさの光景であり、私が生まれて初めて見たアメリカであった(注18)。東松にとって、ネオ・ダダや暗黒舞踏のような前衛芸術運動に内在する危険と密かな楽しみとの混在は、既成の枠を打ち破る芸術的探求の本質を捉えている。それを澁澤は「前衛芸術家はバビロンの架空庭園にいる。ここはフィクショナルな時間空間であって、警察などの介入する権利はもとよりない」と述べた(注19)。土方が主催したイベントで強調されたこの反逆の精神は、「かりにアヴァン・ギャルドといふ名を借りて、舞踊、音楽、映画、絵画、演劇の各ジャンルが、一堂に会して展観される」という三島が考察した概念を示している(注20)。1960年代初頭、東松とその同時代の人たちは、国家権力を超越しようとする集団的野心を持ち、そのような超越によって定義される未来像の共有を特徴とする限りない芸術的試みの場としてアヴァンギャルドを謳歌した。― 350 ―― 350 ―
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