「空間から環境へ」展の〈No. 24〉インターメディア1950年代後半から1960年代にかけて、ニューヨークでは絵画や彫刻の大型化、色彩と形態の統合、そして観客が作品の一部となる環境がアートの潮流となっていた。ハプニング・アートの先駆者であるアラン・カプロー(1927-2006)は著書『アッサンブラージュ、エンバイロメンツ、ハプニングス』(1966)で、新しい形式、物質、視点について論じている。ここで強調される「環境」は日本のインターメディア活動と共鳴し、都市デザインの対話の中で位置づけられたメタボリズムの概念と結びついていた(注21)。美術評論家の石子順造(1928-1977)は、インターメディアを「環境構造」を実現する多次元的な空間として構想し、多様な概念の組み合わせを促進し、アーティストが環境、技術、制度的ネットワークの交わりを問い、解明することを可能にした。ミリアム・サスは、これらの芸術的試みがしばしば個人を疎外する高度成長資本主義の背景で行われたと指摘し、さらにアーティストや理論家は、断片化され圧倒された個人が、環境の急速かつ浸透する変化に効果的に対応するための表現形式をどのように生み出せるかを考察している(注22)。インターメディアに続く「テクノロジー」は、1950年代後半から1960年代にかけてニューヨークの美術界で見られた絵画や彫刻の規模拡大や新しい工業材料の統合を反映し、社会や都市開発に関する議論の中で重要な概念として浮上していた。この流れと並行して、1966年に東野芳明(1930-2005)がキュレーションした南画廊の「色彩と空間」(9月26日-10月13日)や、同年に銀座松屋で開催された「空間から環境へ」展(11月11-16日)には、草月アートセンターで一夜のハプニングイベントも含まれていた〔図10〕。特に「空間から環境へ」展は、エンバイロメントの会が主催した画期的なイベントとなり、絵画、彫刻、写真、デザイン、建築、音楽など複数の分野から38名の参加者によるインターメディア展示が行われた〔図11〕。東野、瀧口、山口勝弘(1928-2018)、粟津潔(1929-2009)、秋山邦晴(1929-1996)、磯崎らが準備委員会に加わり、磯崎は展示レイアウトも設計した(注23)。このような各芸術ジャンルの融合は、「環境」という言葉に集約される「混沌とした衝突の場」へと結実し、その精神は1970年の日本万国博覧会にも継承され、エンバイロメントの会のメンバーによって大阪万博でさらに知られるようになった(注24)。「空間から環境へ」展に出展された東松の作品〈No. 24〉は、インターメディアの文脈の中で独自の位置を占めている。この作品は五十音による参加者の列挙に由来― 351 ―― 351 ―
元のページ ../index.html#364