鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 「ネオ・ダダイズム・オーガナイザー」展と「空間から環境へ」展に関する論述では、黒田雷児が前者を検討し、後者についてはミリアム・サス、由本みどり、井口壽乃、辻泰岳らが分析を行っている。⑵ 今福龍太、東松照明『時の島々』岩波書店、1998年、142頁、 東松照明「カオスの海へ」『日本に消えずに残っているかを浮き彫りにしている(注32)。この主題は、近代化、都市化、グローバリゼーションに伴う「発展」や「進歩」に対する拒絶とみなされる反モダニズム・ポストモダニズム、それに対する広範な批評とも一致している。このような介入を振り返ると、〈No. 541〉の私的な空間から、ハイレッド・センターやゼロ次元の公的な批評に至るまで、これらの運動は単に現状に挑戦するだけでなく、日本の変革期における芸術、空間、社会の関係を再定義する試みであったことが明らかになる。〈No. 541〉はまた、裸体が個人の脆弱性と資本主義による公共空間への侵入の間で高まる緊張を象徴することを示している。ジュリアン・ロスとイェレナ・ストイコヴィッチによると、このプロジェクトは写真とパフォーマンスを融合させ、1960年代の極めて重要な時代を強調し、新宿が政治的活動、前衛芸術、アンダーグラウンドの活気に満ちた中心地であったが、高級化(gentrification)と警察の監視強化という二重の圧力にも覆われたと指摘されている(注33)。東松と加藤にとって、予期せぬ都市でのパフォーマンスから「日常の状態」に戻ることも同様に重要であった。黒田が示唆するように、前衛的な革新の熱狂が沈静化する一方で、それは日常生活のありふれたメカニズムに微妙に浸透し、規制が強まる社会の枠組みの中で機能し続けながらも、一般人の身体を「卑俗な日常性への下降」の体現へと変えていったのである(注34)。結論最後に、中森康文と池上裕子のインタビューによると、東松自身は「前衛という意識はない」と述べているが、彼がいくつかの前衛芸術に関与していたことは確かである。本研究では、1960年代に東松が前衛芸術展覧会のために作品を制作し、他のアヴァンギャルド芸術活動にも参加していたことを見てきた。今後は、1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博に対する東松の視点を調査し、都市の変貌、視覚文化、身体、国家権力が絡み合う複雑な相互作用の中で、彼の挑発的な人間像がどのように位置づけられていたのかを検討を進めたい。列島クロニクル:東松照明の50年』東京都写真美術館、1999年、186頁。― 354 ―― 354 ―

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