㉝ 1861年のサロンにおけるギュスターヴ・クールベの展示戦略研 究 者:国立西洋美術館 研究員 山 枡 あおいはじめに1859年5月にパリで開幕したサロンに、ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)の作品は展示されなかった。1858年12月末の書簡の中で、画家は翌年のサロンに向け、4点か5点の作品を送るつもりだと書いている。そこには2点の大作が含まれていたが、結局クールベはサロンの提出期限までにこれを完成させることができず、その主題は最終的に《春の発情期(雄鹿の戦い)》〔図1〕、《水辺の雄鹿(猟犬狩猟)》〔図2〕、《猟犬係》(ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク)という3点の作品へと形を変え2年後の1861年のサロンに出品されることになる。筆者は以前、これら3点の作品について、同時代の動物表象の文脈から意味解釈を試みた(注1)。本報告書では、画家の展示戦略という観点から、1861年のサロン出品作について考察したい。1.ジャンルの限定1861年のサロン出品作は、その主題の選択のうえで、クールベの画業において一つの転換点をなしたといわれる。前兆は、先立つ1857年のサロン─上述のように1859年のサロンにクールベは出品せず、1858年と1860年はサロン自体が開催されていない─にすでにあった。この年のクールベの出品作で最大の争点となったのは、言うまでもなく《セーヌ河畔のお嬢さんたち(夏)》〔図3〕である。セーヌ河畔の木陰でしどけなく横たわる若い娘たちの乱れた服装に気だるげな眼差し、小舟に置き去られた男物の帽子や贈り物の花束といったモティーフの性的暗示は、同時代の公衆と批評家の目にあまりにも明らかであった。他方、同じサロンに展示された動物を主題とする《分け前、ジュラの森のノロジカ狩り》(ボストン美術館)および《追い詰められた雌鹿、雪の効果(ジュラ)》(個人蔵)の2点については、遠近法の狂いやスケールの不統一といった造形上の問題が数名の批評家から批判を受けたものの、その反応はおおむね好意的だった。そして続く1861年のサロンで、クールベは前述の3点(nos 717-719)に加え《雪の中の狐》(no 720)〔図5〕と《オラグエの岩、メジエールの小谷(ドゥー)》(no 721;エッセン、フォルクヴァング美術館)からなる計5点の作品を展示し、保守的な批評家たちからも称賛を得る。「クールベが風景と動物以外の主題に手を染めないとき、批評家は彼をどのように攻撃してよいものか分からない」と、テオフィル・トレは述べている(注2)。つまり、ここで画家は、1857年のサロンに― 362 ―― 362 ―
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