おいて開拓した「動物と風景」というジャンルに専念し、それまでの反逆的な態度から一転、通俗的・商業的な成功を求める方向へと舵を切った、というのが、従来のクールベ研究におけるなかば通説となっていた。だが留意すべきは、このときクールベはサロンへの発送直前まで、別の主題の作品に取り組んでいたという事実である。1860年11月の書簡では、すでに完成近かった「動物と風景の絵」を「補完すべく(pour le finir)」、《アモルとプシュケ》と題された作品をサロンに展示する予定だと書いている(注3)。ついで同年12月の書簡では、《アモルとプシュケ》に加え、ソルフェリーノの戦いに取材した「戦争画」の構想が語られている(注4)。さらに、1861年3月8日付の書簡にはこう読める。「私はいっそう差し迫った状況にあります。2点の巨大な狩猟の場面は終えました。《雄鹿の闘い》と《水辺の雄鹿》です。この万国博覧会[訳註:サロンのこと]に動物と風景だけを送りたくはないので、一点の人物を描き始めましたが、どうしてもそれを完成させたいと思っています」(注5)。この「人物」が、実際にサロンに送られることになる《猟犬係》を指すのか、別の作品を指すのかは定かでない。いずれにせよ、批評家や公衆の反応とは裏腹に、画家自身はもとより「動物と風景」の主題だけに満足するつもりはなかったのである。このことは、しばしば曲解されるように、クールベにおいて「動物と風景」が「人物」に劣るとか、前者がそれだけで十全な主題たりえないといったことを意味するわけではない。振り返ってみれば、彼は1844年以降1857年まで、すべてのサロンにおいていっさいの例外なく、人物像から構成される風俗画または歴史画(物語画)、自画像を含む肖像画、そして風景画という少なくとも3つのジャンルに属する何らかの作品を出品してきた。1857年の出品作を例にとると、上述の3点のほか、風景画1点と肖像画2点が含まれる。1867年に開催されたクールベの二度目の個展は、これらお馴染みのジャンルに静物画を加えた網羅的な性格ゆえに、画家にとって「完全な展覧会」たりえた(注6)。ジャンルの優劣にかかわらず、あらゆる主題において自らの技量を示すこと。それがクールベの一貫した戦略だったのである。しかしながら、1861年には「動物と風景」に異例ともいえる膨大な時間と労力を割いたために、そのほかの主題を完成させることができなかった。したがってこの年のサロンにおける展示戦略について考えるとき、ジャンルの限定という問題そのものは、じつはさして重要ではない。むしろここで注目したいのは、出品作品相互のより具体的な関係性である。― 363 ―― 363 ―
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