2.「連作」の試みと批評家の役割1861年4月20日、サロン開幕の10日ほど前にクールベは同郷の文筆家・批評家のフランシス・ウェイ(1812-1882)に宛て、鹿狩りに関連する一連の場面を表した《春の発情期》、《水辺の雄鹿》、《猟犬係》の主題について長々と注釈を講じながら、この3点を「狩人のための連作(une suite pour les chasseurs)」(以下、〈連作〉と略記)と定義している(注7)。つまりこれらの作品は、たんにゆるやかなジャンルのまとまりをなすのみならず、その主題のうえで明確な連続性をそなえていたのである。そのことは、サロンのリヴレでは明示されていない。おそらくクールベは、ウェイが何らかの形で自身の言葉を代弁してくれることを期待していたのだろう。というのも、およそ10年前、1849年12月の書簡の中でクールベが1850年のサロン出品作である《石割り人夫》(ドレスデン絵画館旧蔵、現存せず)について語ったその細部に満ちた描写を、ウェイは『ル・ナシオナル』紙に掲載された自身の小説『ビエ・ド・スリーヌ』において全文忠実に引用していたからである(注8)。そしてこのことはあまり知られていないが、実際にウェイは、1872年から82年頃に書かれたとされる生前未刊のクールベの回想録において、画家が〈連作〉について語った言葉を引用している。「彼はひとりの旅行者のように、あるいはひとりの狩人のように語り、そうすることでその印象をとどめる」(注9)─批評家は、「調書」を思い起こさせるその即物的かつ断片的な語り口から、知性に乏しい素朴な画家像を引き出す。そこには、パリ・コミューン後の第三共和政期におけるクールベ批評の典型、すなわち、画家の知性を否定することで脱-政治化し、純粋に絵画的な価値からその地位を回復しようという暗黙の意志が反映されていたと言えよう。ところが、1861年の時点でウェイはクールベの言葉をメディアで紹介してはくれなかった。同年5月16日に『ル・ペイ』紙に掲載されたウェイによるサロン評では、もっぱら絵具の扱いや明暗法といった技法的側面に焦点があてられており、主題に関してはほとんど言及がなされていない(注10)。そのため、〈連作〉をめぐるクールベの意図は、画家の予想に反して公衆の知るところにはならなかったのである。もちろん、クールベは作品の造形それ自体によっても〈連作〉のつながりに観者の意識を向ける工夫を凝らしている。すでに拙論において指摘したとおり、《春の発情期》〔図1〕の画面右に描かれた一頭の雄鹿は、《水辺の雄鹿》〔図2〕の図像を反転して引用したものである。だが、発情期の雄鹿の闘いという主題を考えれば、本来この場に立ち会うべきは雌鹿のはずで、後年制作された《雪の中の雄鹿の闘い》(1868年、ひろしま美術館)では実際にそれが雌鹿の存在に置き換えられていることから― 364 ―― 364 ―
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