鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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も、この第三の雄鹿は二つの作品の連続性を示すためのいわば仲介的な役割を担っていたと解釈できる。事実、同時代の批評家のなかには、この一見不可解なモティーフに着目する者もいた(注11)。上述のように、これまでのクールベのサロン出品作にあっては主題のうえで網羅的であることが肝要で、個々の作品どうしの連続性や意味の結びつきはかならずしも重視されていなかった。1861年のサロン出品作におけるこの新しさは、先行研究では等閑視されてきたといえる。このような新しい試みの背景としては、1857年の《セーヌ河畔のお嬢さんたち》〔図3〕の存在が大きかったのではないだろうか。のちにクールベの最大の擁護者となる批評家ジュール=アントワーヌ・カスタニャリは、いみじくもこう書いている。「《セーヌ河畔のお嬢さんたち》は《村のお嬢さんたち》と対比して見なくてはならない。一方は美徳で、もう一方は悪徳である…」(注12)。1852年のサロンでスキャンダルを起こした《村のお嬢さんたち》〔図4〕は、貧しい少女に施しを与える田舎の娘たちを主題としている。両者を対比させる画家の意図は「お嬢さんたち(demoiselles)」という挑発的な含みをもったタイトルから明らかであり、1867年の個展ではおそらくこの2点が隣りあわせに展示された(no 7、8)。田舎の美徳/対/都市の悪徳、という構造は、それほど明白ではないものの、同じサロンに出品された《分け前、ジュラの森のノロジカ狩り》において獲物を前に瞑想に耽る狩人と、《セーヌ河畔のお嬢さんたち》のあいだにも見いだすことができる。つまり、1857年のサロンは、複数の作品間の意味の緊密な結びつきとその展示効果について、画家に思索を促す契機となったのではないだろうか。加えて1861年のサロンでは、制度のうえでも新しい試みがなされた。これまではおおまかな主題ごとに分類されていたサロンの全出品作品が、この年は作家の名前のアルファベット順に展示されたのである。したがってクールベの作品はピュヴィス・ド・シャヴァンヌやアレクサンドル・カバネルの歴史画のすぐそばに展示されたわけだが、結果としてこの改革は、これまで別々の部屋に分散せざるをえなかったひとりの作家の作品を、一つのまとまりとして示すことを可能にした。そのような折にクールベが新しい展示手法に打って出たことは、時宜にかなった選択であったというべきだろう。3.サロンのプロトタイプとしてのブザンソン万国博覧会さらに、《セーヌ河畔のお嬢さんたち》と《村のお嬢さんたち》で用いられた対比的な手法が、1861年のサロンにおいても用いられていたことを指摘したい。鍵となるのは、この年のサロンに出品されたもう一つの動物の主題、《雪の中の狐》〔図5〕で― 365 ―― 365 ―

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