鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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ある。本作は、画家がウェイに宛てた書簡の中で言及されておらず、先行研究ではほとんど議論の俎上にのらなかった。だが、クールベの全サロン出品作中、個別に取り上げられた動物は鹿を除けばじつはこの狐だけであり、残忍な捕食者としての狐のイメージは、犠牲者としての雄鹿のイメージ〔図2〕と明白なコントラストをなしている。筆者は以前、クールベの〈連作〉とフーリエ主義者アルフォンス・トゥスネルの著作『動物の精神:フランスの狩猟と情念動物学』(1847年初版)の接点を指摘した(注13)。この点については拙論を参照されたいが、トゥスネルの著作において、狐が雄鹿と対比的に取り上げられていることは注目に値する。それによれば、雄鹿は高貴な「神の使徒」で、他者の幸福のために闘い、権力によって不当な迫害を受ける「創作者」を象徴するのに対し、狐は陰険な「サタンの使徒」で、「自分よりも弱いあらゆる動物に対し戦争を仕掛け」、自分の利益のためだけに働く(注14)。ここでクールベの展示戦略という観点からとりわけ注目したいのが、1861年のサロンに先立ち、1860年6月から10月まで画家の故郷フランシュ=コンテ地方のブザンソンで開催された万国博覧会である〔図6〕。このときクールベが出展した地方色の濃い14点の作品のうち、動物を主題とするものは肖像などと並んで最も多く、4点を数える。うち1点は、ほかならぬ1861年のサロン出品作である《雪の中の狐》で、《狐とその獲物(雪)》(no 315)という題のもと展示された。ほかの3点は、《吊るされたノロジカ(分け前のエピソード)》(no 308)、《ドイツの狩人、あるいは瀕死の雄鹿》(no 309)、《水に飛び込む雄鹿(猟犬狩猟)》(no 310)である。最後の《水に飛び込む雄鹿(Le cerf qui prend eau)》は、ロベール・フェルニエが編纂したカタログ・レゾネにおいて、1861年のサロン出品作である《水辺の雄鹿》と同定されている。だが、万国博覧会のカタログに記載された600フランというこの作品の価格は、明らかに後者には見合わない(注15)。そもそもこの展覧会では、2メートルを超える大きさの作品は出品を認められていなかった(注16)。したがって本作は、1861年のサロン出品作と同じ主題の、しかしもっと小さな別の作品─あるいはそれは、のちにピエール=ジュール・エッツェルが所有する《川辺の鹿》(山梨県立美術館)を指すのかもしれない─であったに違いない。1860年5月終わりにクールベは、もしも間に合うならば、「水に飛び込む雄鹿(Cerf qui se jette à lʼeau)」をブザンソンの万国博覧会に送るつもりだと書いている(注17)。一方、1859年に画家のアトリエを訪れた批評家ザカリー・アストリュクの証言によれば、1861年のサロン出品作である《水辺の雄鹿》は、この時点までにほぼ完成していた(注18)。とすればクールベは、ブザンソンの展覧会のためにわざわざ《水辺の雄鹿》の縮小版を制作したことになる。同時に― 366 ―― 366 ―

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