注⑴ 山枡あおい「ギュスターヴ・クールベ〈狩人のための連作〉解釈の試み」『美術史』194号、美⑵ Théophile Thoré, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ (1861 ■ 1868). t. I, Paris : Renouard, 1870, p. 99.⑶ Lettre à Amand Gautier, 4 (?) novembre 1860 : L. 60-10. 本稿におけるクールベの書簡の引用はすべて以下の文献を参照し、番号をL. として記す。Petra ten-Doesschate Chu (éd.), ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Paris : Flammarion, 1996.⑷ Lettre à Champfleury, fin décembre 1860 : L. 60-12.⑸ Lettre à Auguste Poulet-Malassis, 8 mars 1861 : L. 61-3.⑹ Patricia Mainardi, « ■ʼ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ de Courbet », ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■出品された残る2点の動物の主題はそれぞれ、メスダフ・コレクションの作品〔図7〕とロン=ル=ソニエ美術館の作品〔図8〕を指すと見てよいだろう。これら3点は、いずれも鹿ないしノロジカ狩りの一連の流れの異なる段階を表すという点で、1861年の〈連作〉のいわばプロトタイプをなしていた。ここにクールベは《雪の中の狐》を加えることで、連続(suite)と対比(opposition)という、きたる1861年のサロンにおいて導入する目論見の新しい展示手法を、より小さな規模で実験したのではないだろうか。おわりに美術史家のペトラ・チュウは、1850年代をつうじてクールベがサロンというパブリックな場において展示した暗示的・寓意的な作品群を、厳しい検閲に晒された同時代の出版業界で発展したアイロニーの手法にも似た「サロン・レトリック」という概念によって説明している(注19)。これまでの筆者の議論に基づくならば、1861年のサロン出品作はその寓意性において1850年代のそれの延長線上に位置づけられるのみならず、複数の作品間の連続と対比を意識した、新しい「レトリック」を創出する試みであったと結論づけることができるだろう。おそらく、このときのクールベの最大の誤算は、ウェイが自身の言葉を代弁してメディアで発信してくれなかったことだった。実際のところ、1861年に140近くもの新聞雑誌に掲載されたサロン評のうち、クールベによる出品作品相互の意味の結びつきに具体的に言及したものは管見のかぎり皆無である(注20)。この新しい展示手法に手応えを得られなかった画家は、続く1863年のサロンで早々にこれを放棄するとともに、いわゆる「批評家システム」に拠ることのない、誰の目にとっても露骨に風刺的な《法話からの帰り道》(現存せず)を出品することになる(注21)。術史學會、2023年3月、170-186頁。― 367 ―― 367 ―
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