唐絵に特化してコレクションの質と量を飛躍的にアップグレードさせた。そこには旧藩主治郷とも父可備とも全く異なる道具観がうかがえる。ここで可時の唐絵蒐集の経緯を、そこに附属する添帖(状)を軸に確認したい。三宅秀和氏ほかにより翻刻紹介された木挽町狩野家九代養信・十代雅信の鑑定控「添状控」2冊(第1冊:天保12年9月~嘉永3年6月、第2冊:嘉永3年7月~文久元年3月)(注7)によれば、嘉永2年(1849)4月、前掲の乙部家伝世品である聞極筆「梅之画」が松江藩御抱絵師の飯島助九郎経由で鑑定に持ち込まれる(No.239)。同年5月、「乙部九郎兵衛」の名が初めて登場し、禅月筆「羅漢」二幅対の箱書を依頼する(254)。以後、依頼者「乙部」の名は毎年切れ目なく記録され、文久元年(1861)2月までの約12年間で77件に上る。以降は「添状控」自体がないため辿ることができないが、今回調査した乙部家旧蔵絵画の添帖で最も新しいものは馬遠筆「洞山渡水図」(東京国立博物館蔵)附属の明治4年(1871)2月19日付の雅信添帖だった。可時は実に廃藩置県直前まで23年間に渡り蒐集を続けていたのである。これを可時の江戸滞在期間と重ねると、弘化元年(1844)9月の家督後3度出府しており、1度目が江戸勤番として弘化2年11月~同4年11月、2度目が江戸御留守詰(留守居役)として嘉永2年(1849)4月~同3年5月、3度目が嘉永6年(1853)9~10月、九代藩主斉貴から十代定安への代替わりの際だが、この時は病気を理由に短期間で帰国している(注8)。すなわち、「添状控」への「乙部」登場は可時の2度目の江戸滞在と一致し、江戸留守居役となってから本格的に唐絵蒐集を開始したことが指摘できる。なお、狩野雅信とのつながりはこれより遡る。1度目の出府の最後、弘化4年(1847)秋の孝明天皇即位礼に斉貴が将軍名代として上洛した際、可時が行列の殿しんがりを務めたことは前稿で紹介したが、その準備は同年4月から赤坂上屋敷で始まり、幕府の儀式典礼を司る高家を招いた席には雅信も招待されていた(注9)。可時はこの役職を通して雅信と面識を得たと考えられる。治郷と八代伊川院榮信の交流はよく知られているが、斉貴も後の安政6年(1859)1月、雅信に自身の肖像画(月照寺蔵)を描かせており、松江藩主と木挽町狩野家当主の親交は連綿と続いていたのである。(2)唐絵蒐集の財源次に可時の蒐集を支えた財源に触れておきたい。まだ不明な点も多いが、乙部家文書の中に奥出雲の鉄師である田部長右衛門と桜井伝一郎からそれぞれ額面500両、2000貫文(=500両)を5年切で借用する嘉永元年(1848)12月付の証文が確認できた(14-7-2「借用申金之事」、14-7-3「借用申銭之事」)。借主はいずれも乙部家与力― 376 ―― 376 ―
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