の岡野桃左衛門ほか3名、用途は「九郎兵衛殿方お江戸ニ入用ニ付」、質物はそれぞれ「島根郡大海崎山内中滑之立木」「意宇郡日吉村田地」とある。可時は2度目の出府を前に少なくとも計1000両を準備していたことになる。とは言え、道具商の言い値通り唐絵購入を続けるには充分とも言えない額だろう。明治4年に至るまで可時の蒐集を可能にしたのは、相見香雨が「常に人を三都に派し諸州に廻して、尤品の物色に努め、殊に京都の寺院を漁りたれば…」(注10)と紹介したところの、道具商を介さず古画を寺院等から直接買い付ける、新たな戦略だった。(3)新たな唐絵蒐集方法─可時の〈契約子〉園山九市郎と東福寺今回調査した乙部家旧蔵絵画の中に、牧谿筆「芦雁図」(二幅対、個人蔵)および伝張思恭筆の大幅「文殊普賢菩薩像」(二幅、静嘉堂文庫美術館蔵)がある。後者はクリーブランド美術館所蔵となった本尊「釈迦如来像」とあわせ、伊藤若冲筆「釈迦三尊像」(三幅対、相国寺蔵)の原本であったことが知られる(注11)。この2件はともに「園山九市郎」なる詳細不明の人物にあてた東福寺譲状と狩野雅信の添帖が附属する。発行時期はそれぞれ以下の通りである。・「芦雁図」東福寺譲状:安政5年(1858)6月〔図5〕、添帖:同年8月19日・「文殊普賢菩薩像」東福寺譲状:安政6年(1859)10月〔図6〕、添帖:同年4月19日今回、この「園山九市郎」にあてた東福寺証文が附属する作品を新たに見出すことができた。松江城下から約30km西にある林運山霊雲寺(出雲市西林木町)の所蔵で、昭和8年(1933)から奈良国立博物館に寄託される伝明兆筆「三禅師像」(三幅対、絹本著色)〔図7〕である。箱蓋裏の貼紙に霊雲寺四世伊菴梵器(1820-1902)による以下の識語があり、慧日山(東福寺)所蔵だった百丈・臨済・仏鑑(無準)頂相をまず乙部家が入手し、数年を経て明治2年(1869)秋に霊雲寺に渡ったことが分かる。百丈臨済仏鑑三大禅師之頂相者吉山明兆殿司真筆而慧日山宝蔵之重品也、然而所従来者珍蔵於本邦松江城乙部氏宝庫有年、于茲今秋幸得紹介拝請之、永留在於当山要為法宝第一矣、切希為俗眼勿開凾云爾、于時明治二年歳在己巳臘月仏成道日現住霊雲伊菴㊞梵器謹識㊞また、附属の極箱には以下6点の文書が収められていた(注12)。① 義荘筆霊雲丈室和尚宛手簡(年不詳11月2日)② 狩野雅信筆「仏鑑禅師像」添帖(安政6年〔1859〕12月19日)③ 同聚院岫雲筆園山九市郎宛証文(万延元年〔1860〕2月、有印)― 377 ―― 377 ―
元のページ ../index.html#390