鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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(No.489,508)。だが、そこに記された依頼者の名は、いずれも「乙部」である。④ 狩野雅信筆「百丈臨済禅師像」添帖(文久元年〔1861〕1月19日)⑤ 同聚院岫雲筆園山九市郎宛手簡(年不詳3月1日)の伊菴による写し⑥ 同聚院岫雲筆園山屋九市郎宛証文(文久2年〔1862〕8月)および一華院春嶺筆園山屋九市郎宛手簡(年不詳8月21日)の伊菴による写しやや複雑だが、これらの内容を整理すると、次のような経緯が読みとれる。まず「仏鑑禅師像」1幅について、①園山九市郎が「園山氏」の使者として「義荘」に依頼、義荘から東福寺塔頭の霊雲院・龍眠院・善恵軒・一華院へ相談。②狩野雅信が「兆典主正筆」と鑑定。③九市郎が東福寺伽藍修復費の一部として23両を寄附し、「東福寺役者」の同聚院岫雲が返礼として1幅を贈呈する九市郎宛証文を発行。次に「百丈禅師、臨済禅師之像」2幅について、④狩野雅信が「兆典主正筆」と鑑定。⑤26両を寄附する返礼として2幅を園山九市郎に贈呈することで同聚院岫雲と合意、ただし岫雲は本山の譲状は出せない旨を「佐太郎氏」に伝えるよう依頼。⑥岫雲が寄附金の返礼として2幅を贈呈する「園山屋〔ママ〕九市郎」宛証文を発行(添書は春嶺代筆)。つまり、「三禅師像」は安政6年から文久2年にかけて東福寺塔頭から「園山佐太郎氏」の使者である「園山九市郎」へ伽藍修復費寄附と引き換えに順次譲渡したものということになる。3幅とも像の大きさはほぼ同じで、明兆筆「四十祖像」(東福寺蔵)を原本とする一連の写しから抽出されたと推測される。なお、3幅とも裏に「明治十八年三月十四日増殖願済 霊雲寺什具/伊菴梵器謹記」とあり、この時に改装したのか仏鑑像のみ上部に絹を足してある。前掲の「添状控」に目を戻すと、上記②④の文書に該当する記録が確認できるここに至って浮かび上がるのは、「園山九市郎とは乙部九郎兵衛可時の傀儡ではないか」という疑問である。今回の調査ではこの疑問への回答となる文書も霊雲寺から発見された。同寺六世政邦宗護(1880-1967)が記した大正8年(1919)6月27日付の園山九市郎の息子からの「聞書」(罫紙墨書1枚、縦24.1×横32.9cm)で、以下のようにある。 父九市郎ハ松江城五家老ノ中第二ノ家老職乙部九郎兵衛氏ノ契約子トナリ九ノ字ヲ貰テ九市郎ト名乗リ、九郎兵衛氏ハ非常ニ道具類書画類ニ趣味ヲ有シ居タルヲ以テ九市郎氏ハ毎年二回位九郎兵衛氏ノ命ヲ奉ジテ上京シ古書画等ノ珍品ヲ購入シテ帰ルヲ例トセリ、霊雲寺ノ秘蔵品タル兆殿司ノ軸物ノ如キモ矢張九市郎ガ乙部氏ノ使者トシテ上京シ東福寺ヨリ買出シ乙部氏方ニ持チ帰リ仝家ノ所蔵タリ― 378 ―― 378 ―

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