シモノヲ霊雲寺ヘ譲渡シノ周旋ヲナセシモノナラン〔後略〕すなわち、園山九市郎は乙部九郎兵衛可時の「契約子」となって「九」の字を与えられ、使者として毎年2回程度、京に上り古書画の買い出しを行っていたという。「契けい約やく子ご」とは、『島根県方言辞典』によれば「契約親おや」と対になる語で「身分の低い男子が、年ごろになると良家の者に親になって貰う、その親」に対する子を意味する(注13)。「芦雁図」「文殊普賢菩薩像」(当時は釈迦を含む)も、同様の方法で東福寺から買い出されたものと見做される。寄附金支払い前に狩野雅信へ鑑定を持ち込んだのは、九市郎では古画の品定めができなかったためだろう。なお、園山九市郎は霊雲寺の隣村・東林木村在住であったことが明治期の『島根県広報』等の記録に残る(注14)。なぜ松江城下を遠く離れた山村から彼が可時の「契約子」に選ばれたのか、理由はまだ分からない。また、可時が蒐集した絵画の量と前掲の相見香雨の言葉を想起すれば、九市郎はおそらく京都エリアを担当する「契約子」のひとりに過ぎず、江戸や大坂の担当者も別に複数存在した可能性が高い。これに近い「唐画」蒐集は、御抱絵師を「御吟味」に派遣した細川斉茲(1755-1835)の先例が見られるものの(注15)、可時が実際に何からヒントを得たかは不明である。むすびに驚くべきことに、乙部九郎兵衛可時は自分の名前も松江藩家老という身分も全く表に出さず、「契約子」を使って絵画蒐集を行っていた。そして以上見てきた東福寺の例は、従来、明治初期の廃仏毀釈の中で起こったと理解されてきた大寺院からの寺宝流出が、実際にはそれより早い1850年代後半から双方合意の上で静かに進んでいたことを示している。本来、「御成」「茶」など具体的な目的を持っていた幕藩体制下における武家の道具蒐集は、この時代に至り、書院や茶室に収まりきらない請来仏画の大幅や頂相までを買い出すという奇妙な展開を見せていた。実はこれは可時に限ったことではない。さらに俯瞰すれば、こうした旧体制末期の上級武家の蒐集活動こそが、仏画・仏像を文脈から切り離して東山御物や中興名物と同レベルで評価する、近代数寄者の井上馨や益田孝らの近代的〈美術〉観を準備したのではないだろうか。可時に典拠を与えていた狩野雅信、コレクションの保存管理を補佐し「乙部仕立」成立に関わった松江藩御茶道方や御宝蔵守護、伝統破壊者としての藩主斉貴の存在など書き残したことは多いが、これらは次の課題としたい。― 379 ―― 379 ―
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