㉟ 中世関東地方北東部における観音霊験像の成立と展開─縁起生成との関連を中心に─研 究 者:駒澤大学 非常勤講師 宗 藤 健はじめに日本史において中世前期に区分される13世紀は、霊験仏の世紀であった(注1)。善光寺如来や長谷寺観音など、独自の像容と霊験譚をまとう仏・菩薩への信仰が流布し、各地の在地造像においても、土地ごとに固有の説話に彩られた霊像が多く生み出された。本稿では、鎌倉幕府の成立によって列島の一方の極となった中世関東地方において、鎌倉の影響を受けつつ独自の文化圏を築きあげた関東地方北東部─常陸・下総・下野東部─および、歴史的にこれらの地域と一体性の強い陸奥南東部(現在の福島県浜通りと中通りの一部)に伝世する観音像を検討対象として、説話と造形の相互関係を考察する。この地域の在銘の観音像を通観して気付かされるのは、素地仕上げの檀像風の作例が豊富に伝世していることである。構造別には割矧造が最も多く、寄木造がそれに次ぎ、少数ながら一木造の作例も現存する。在銘作品以外にも対象を広げれば、その数はさらに多い。こうした素地仕上げの観音像について、本間紀男は「北関東に於ける鎌倉後半期の一様式とも考えられる」としたうえ、永徳寺千手観音像(栃木県市貝町)を例に挙げ、「一木素木系の伏流水と皮相的写実に向かう鎌倉後期彫刻に身を置く矛盾が生み出したものかと考えられ、一木素木系のながれの変則的表出とも言えよう」と指摘する(注2)。さらに「当像は秘仏の平安後期榧一木割矧像のお前立であり、そうした環境が当像の成立に影響を与えた可能性はあり得よう」として、造像の背景や安置環境が像の構造選択に及ぼす影響についても示唆している。本間の指摘のうち、秘仏本尊という根本霊像の存在を措定している点は特に重要である。当該地域の素地仕上げ像のなかで比較的早期に属する天福2年(1234)銘の八槻都々古別神社十一面観音立像(福島県棚倉町)は、銘文中で「大和国長谷寺之本仏之威儀」を模して造ったことを明記している(注3)。すなわち古代に淵源をもつ霊験寺院本尊の霊威を十全に移植・再現するため、平安時代前期に隆盛した代用檀像を想起させる素地仕上げを意識的に選択した可能性がある。八槻都々古別神社像は、同じ銘文中で「三十三所観音霊地」のひとつである八溝山観音堂(日輪寺、茨城県大子町)に触れており、これは坂東三十三所観音巡礼に言及した史料の初例として知られる。坂東札所の多くが平安時― 385 ―― 385 ―
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