1-2 泉光寺聖観音立像〔奥山観音〕 茨城県利根町 町指定文化財〔図1〕像高76.7cm、針葉樹材一木造、彫眼、素地。頭体幹部は地髪部から足枘まで一材で彫出する。背面にかかる天衣の下縁に沿って背中から腋の下まで水平に鋸を入れ、頭頂部から耳の後ろを通る線に沿って上半身のみ前後に割り矧ぐ。〔図1-3〕頭体の一部のみを割矧としたうえ素地で仕上げる構造は、玉眼と彫眼の差異はあるものの、貞応3年(1224)の肥後別当定慶の作として知られる京都・大報恩寺(千本釈迦堂)六観音像にも見られる(注7)。基本的な構造の共通に加え、両脚間正面において裙の折り返し部と腰布の打ち合わせ部を長く舌状に垂下する図像や、複雑な衣襞の軽快な処理など、形式・作風の面でも「宋風」と形容される大報恩寺像との類似を示す。両者の間に近縁性をみとめるのは妥当であろう。定慶と関東の関わりは、『吾妻鏡』嘉禎元年(1235)5月27日条で、摂家将軍藤原頼経の正妻・竹御所の一周忌追善供養の仏師として登場する「肥後法橋」が定慶と見られるほか、翌6月に開眼された頼経御願寺である五大堂明王院の本尊不動明王像も、定慶が鎌倉で制作したものであることが塩澤寛樹によって指摘されている(注8)。この時期の将軍家近臣として知られる御家人の一人が、千葉一族の総帥・常胤の曾孫で相馬御厨の地頭職を相伝した相馬胤綱であり、頼経に供奉して京・鎌倉の双方で活動した履歴が『吾妻鏡』に見えるほか、その子息胤継も、次の将軍頼嗣に御格子番衆として近侍している(注9)。泉光寺の所在する相馬郡文間郷は、13世紀前半には相馬御厨の東縁を占めていた(注10)。同時期の常陸における笠間時朝の事例に照らしても(注11)、将軍家近臣の有力御家人として定慶の造仏を親しく見聞し得た胤綱・胤継が自領での造像を主導した蓋然性は首肯されよう。その後、弘安年間(1278-1288)頃には、新田岩松氏や島津氏など姻戚への譲与や一族間の内紛によって相馬氏の所領は細分化していく(注12)。相馬御厨における相馬氏の惣領支配が実質的に機能していた13世紀第3・四半期頃をもって、泉光寺像の造立年代のおよその下限と見なすべきであろう。なお、近世大名として明治維新まで福島県浜通り地域に存続した陸奥中村藩主の相馬氏は、胤綱の曾孫で元亨年間(1321-1324)に陸奥行方郡に移住した重胤を実質的な家祖とする。相馬氏の陸奥進出は奥州合戦に従軍した千葉常胤・師常父子への所領給付に始まり、重胤移住以前は代官を置いて支配を行ったとみられる(注13)。いま浜通り地域には、定慶風を踏襲した素地像である弘安6年(1283)銘の泉竜寺(泉観音堂、福島県南相馬市)の十一面観音像が現存するが、若林繁はこれを相馬氏が直接造像に関与したものではなく、相馬氏に従った在地豪族が発願したものとみる(注― 387 ―― 387 ―
元のページ ../index.html#400