14)。構造や図像の面で系統を同じくする泉竜寺像の存在を考えるとき、より大報恩寺像に近い作風を示す泉光寺像はやはり相馬氏嫡流に近い者の発願であることが想定される。1-3 吉祥寺十一面観音立像〔旧文殊寺本尊〕 千葉県酒々井町 町指定文化財〔図2〕像高69.8cm、針葉樹材寄木造、彫眼、素地。頭体を共木で彫出し割首とする。本像は、全体が10度ほど前傾するが、頭体材の矧ぎ目は鉛直方向に通っているため、正面材は頭部で厚く、脚部で薄くなり、背面材は頭部で薄く、脚部で厚くなる〔図2-3〕。前述のように、千葉寺周辺で管理された行基水中霊仏感得説話が本作に附随することも(注15)、千葉一族に連なる相馬氏の関与を想起させる。泉光寺像は、惣領制の解体という13世紀後半の武士社会の変容の前夜にあって、中央(京・鎌倉)の影響を取り入れつつそれをよく咀嚼し得た関東御家人の在地造像の事例として理解できよう。裙の折り返し部の下から垂らした腰紐を両脚間正面で蝶結びにする形式は、「はじめに」で触れた八槻都々古別神社十一面観音立像とも共通する。また、畿内の作例であるが正安2年(1300)銘の代用檀像である金禅寺十一面観音立像(大阪府豊中市)にも類似の表現がみられ(注16)、13世紀の檀像風彫刻の服制として違和感がない。そのうえで本作に特徴的な点は、垂下する腰紐の終端を表さず、蝶結びの下方で裙の表面に埋没していくような表現をとっていることである〔図2-4〕。これは井上正が提唱した「霊木化現」の一種とも見え(注17)、板目を正面にして木目を目立たせていること、当初から前傾姿勢を前提とした特異な木寄せを用いていることと併せ、用材そのものの霊威を最大限に引き出しているかに思われる。本作を安置する吉祥寺は、戦国期において千葉氏宗家の居城であった本佐倉城址の外郭の位置を占める。本作はもとは同じ本佐倉城下の文殊寺(廃寺)にあり、天保年間の大風で同寺が大破したため吉祥寺に移されたという(注18)。佐倉周辺は中世を通じて千葉一族の金城湯池であり、中世からの城域内の寺院で相伝されてきた本作の来歴を考えれば、本作が千葉一族に連なる人物を願主とする造像である蓋然性は高い。中世にさかのぼる本作固有の霊験説話は逸失しているが、千葉一族管理下の行基伝承が散在する内海の南岸にあって、作風が異なるとはいえ泉光寺像と同じ素地仕上げを採用していることからも、両像は近しい生成環境下にあったものとみて差し支えなく、その制作年代の上限は、やはり13世紀まで上げて検討する必要があろう。― 388 ―― 388 ―
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