2-2 御堂地観音堂〔堀之内仏堂〕聖観音立像 栃木県大田原市 市指定文化財〔図3〕像高141.8cm、針葉樹材割矧造、玉眼嵌入、素地。髻を含む頭体幹部を、木裏を正2.八溝山・筑波山周辺の諸像2-1 地域の概要:「狩庭」としての那須野前節では内海世界の南縁に触れたが、その北辺を区切るのは歌枕として名高い常陸中部の筑波山である。その頂から稜線をほぼ真北に100kmほど辿れば、陸奥の入口を扼す阿武隈山系の八溝山に至る。八溝山日輪寺(茨城県大子町)は坂東二十一番、筑波山大御堂(茨城県つくば市)は坂東二十五番の札所であり、その西にあって坂東十八番中禅寺(栃木県日光市)を擁する日光男体山と同様、山全体が観音の霊地である。筑波山は8世紀末に南都法相教学の学匠・徳一の来錫があったとされ、下って13世紀には親鸞や忍性がこの地の周辺に拠ったことはよく知られる。ことに関東における西大寺流律宗の大立者である忍性は、建長5年(1253)に筑波山南麓の三村山に結界石を建て、当地における不殺生戒の徹底を宣言した。無住の『雑談集』巻九は、筑波山近くの東條に棲む狐が狩猟の難を逃れるため三村山に逃げ込んだとの説話を載せるが、こうした伝承の存在は筑波山域が歴史的・民俗的に狐狩りのイメージと深く結びついていたことを裏書きする。その一例が、筑波の北西に広がる下野・那須野の玉藻前伝承であり、その後日譚たる玄翁和尚の殺生石伝説においては、玄翁の八溝山への参籠を伝えるヴァージョンが存在する(注19)。また八溝から筑波への巡礼路の途上にある坂東二十三番佐白山正福寺(茨城県笠間市)の縁起には、狩人が山中で千手観音を感得するという殺生人発心譚がみられる(注20)。東国における狩猟(=殺生)功徳の思想は、南北朝期の成立とみられる『神道集』巻十の信濃諏訪社の縁起にある「諏訪の勘文」に最もラディカルな形で集約されるが(注21)、同書では下野宇都宮社を諏訪の兄弟神と位置づける。こうした認識の原型は13世紀にはあり、『沙石集』巻一でも「狩ヲ宗ト」する社として「信州ノ諏方、下州ノ宇都宮」を挙げる。下野北部の有力御家人であった宇都宮氏は、宇都宮社壇の祭祀を担う特異な一族でもあり、『神道集』と生成環境を近しくする真名本『曾我物語』巻六においても、那須野の巻狩を差配して頼朝から賞賛を受ける名誉に浴している。日光、八溝、筑波の山並みに囲繞された那須野は、仏教的には罪業であるべき殺生を狩猟という神聖な儀式へと昇華する論理に支えられた狩庭というトポスであり、中世説話の生成環境としての那須野の中心にいたのが宇都宮一族であった。― 389 ―― 389 ―
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