2-3 古宿観音堂十一面観音立像 福島県塙町 町指定文化財〔図4〕面にした板目の一材で造り、前後に割り矧ぐ。後補の錆漆が全体を覆うが、もとは素地像であったとみられる。玉眼を備えた面貌は怜悧で、体正面の条帛末端部、裙折り返し部、腰布打合せ部が両脚間に鋭い三角状の尖頭をつくって垂下する。檀像風彫刻らしい直線的な彫り口である。本作を安置する御堂地観音堂は、久寿年間(1154-1156)に狐狩りのために当地に下向したという三浦介義明の愛妾、梅雪尼とのゆかりを伝える。この狐狩りとはいうまでもなく、御伽草子や謡曲で人口に膾炙した前述の玉藻前の物語を指している。文化14年(1817)に黒羽藩主大関増業が編纂した領内の地誌『創垂可継』「封域郷村誌」巻四は、当堂を筆頭に玉藻前に関わる人物の古蹟伝承地を多く記す。また同書巻八では、三浦介に従って功を挙げた者の子孫のうち、現に居住している者の名を伝来の家宝とともに列記するなど、近代移行期においても玉藻前伝承が村堂や旧家の由緒を語る上で重要な要素であったことを窺わせる。ところで御伽草子の『たまものさうし』を始めとする諸本では、玉藻前を討ち果たすために三浦介義明と上総介広常の2人が院に召し出されるが、『創垂可継』で言及されるのはもっぱら「三浦介」のみである。相模の有力御家人であった三浦氏の主流は宝治元年(1247)に北条時頼に攻められ滅亡するが、三浦泰村の姉妹を娶っていた宇都宮時綱は三浦方に加勢し、子息らとともに鎌倉の法華堂で自刃している。那須野の狐退治の伝承が、宇都宮氏の姻戚である三浦氏への顕彰と結びついていたとすれば、梅雪尼伝承を有する御堂地観音の願主もまた、宇都宮氏に連なる人物である可能性がある。北口英雄は、13世紀下野を代表する檀像風彫刻である弘長元年(1261)銘の坂東二十番西明寺千手観音像(栃木県益子町)が宇都宮氏関連の造像であることを明らかにしており(注22)、また宇都宮氏の支族である笠間氏が治めた常陸の東性寺(茨城県笠間市)にも、13世紀とみられる檀像風の観音像が伝存する。これらと同系統の作風に属する御堂地観音も、13世紀の宇都宮氏関連造像に数えて検討する余地があろう。像高185.0cm、広葉樹材(ケヤキか)一木造、彫眼、素地。頭体幹部は、木心を籠めた縦一材を板目使いにし、割矧・内刳を施さず、手先を含む両手、持物(水瓶)、足枘までを本体と共木で彫出する。6尺の大像にふさわしい雄偉な面貌と堂々たる体軀を備える。本作は背面の地髪部において、髪束を襟足からV字型に梳き上げ、背面中央の分け― 390 ―― 390 ―
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