鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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2-4 隠沢観音堂十一面観音立像 茨城県笠間市 市指定文化財〔図5〕目付近において内側に逆V字方向の髪束を覗かせる〔図4-3〕。背面においてこのようにいささか繁褥ともいえる装飾的な毛筋を表現するのは異例であるが、流れの方向の異なる髪束を後頭部で層状に重ねる表現は、強いて先行例を求めれば東寺講堂五菩薩中の金剛業菩薩や神護寺五大虚空蔵菩薩など、平安時代前期の密教系菩薩像にみられる。13世紀関東でこれに近い表現をとるものは、箱根権現摂社の能善権現の本地仏として永仁5年(1297)に造られた興福院普賢菩薩坐像(神奈川県箱根町)や(注23)、中尊像内に正安元年(1299)の納入品が籠められた浄光明寺阿弥陀三尊(神奈川県鎌倉市)の脇侍がある(注24)。箱根権現は鎌倉将軍の二所詣の巡拝地であり、那須野の巻狩を詳述する真名本『曾我物語』の生成にも関与したとみられる。こうした鎌倉幕府関連寺社での造像が、古宿観音の図像的典拠となった可能性も考えられる。古宿観音が所在する伊香地区は、久慈川に沿って水戸と棚倉を結ぶ街道上にあり、平安京から多賀城に至る官道の宿駅であった高野駅の所在地に比定される(注25)。八溝山信仰圏の主要な一角を占める都々古別三社にもほど近く、関東と陸奥の境界として古代から重要な位置を占めた。また当堂は朝日長者伝説でも知られる。全国に類話があるが、当地においては旅人を殺して財を成した長者が改心して仏に帰依するという、殺生人発心譚のヴァリエーションとなっている(注26)。八溝山を介して那須野につながる当地の地理的環境を考慮すれば、真名本『曾我物語』や『神道集』にみられる東国的殺生功徳観の当地への影響も想定されよう。像高168.1cm、針葉樹材割矧造、彫眼。頭体幹部は、柾目を正面にした縦一材を、耳の後方を通る線で前後に割り矧ぐ。背面においては膝の高さで水平に鋸を入れ、裙の地付まで別材を矧ぎつける。顔の正中から左右に流れた前髪の束が耳上を渡り、背面においてはその終端は平彫の地髪部に埋没する。鬢髪は前髪の束の下層で二条に分岐し、一条は前髪とともに耳を渡り、もう一条は頬の横にもみあげ状に垂下するという特異な像容である〔図5-3〕。6尺近い大像で、木目を強調した仕上げと太い体幹に加え、口唇を少しすぼめて前方に突き出した表情など、全体および細部の作風において前出の古宿観音や、八溝観音の姉仏とも伝承される弘安元年(1278)銘道坂観音堂十一面観音像(栃木県大田原市)に似た特徴を示す(注27)。両肩先の材は部分的には後補の可能性もあるが、頭体材とよく馴染んでおり、鎹を露出させた力強い組み付けは松倉山観音堂(栃― 391 ―― 391 ―

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