鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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2-5 日輪寺十一面観音立像〔八溝観音〕 茨城県大子町〔図6〕木県那須烏山市)に伝存する応永2年(1395)から嘉吉3年(1443)にかけての諸像など(注28)、中世後期の北関東在地造像に通じる粗豪な趣を見せる。頭体の一部を割矧とする構造は第1節で示した内海南岸の作例にも通じるが、全体的な傾向としては古宿・道坂・松倉山に通じる八溝山麓から那須野にかけての中世造像との親和性を示し、その作期は13世紀から15世紀までの範囲で幅を持たせての検討を要する。当堂は近世には土浦藩主から寺領や厨子の寄進を受け、昭和戦後まで毎年7月10日の朝観音には霞ヶ浦沿岸を含む近隣諸地域から多くの参詣者を集めたという。内海と那須野という、関東北東部の二つの信仰圏を結節する作例として重要である。当地域の根本霊像ともいうべき、坂東二十一番八溝山日輪寺の本尊である。後世の修補が著しく、当初の構造・形式には不明な点が多いものの、実査の機会を頂いたので、本節にて所見を記す(注29)。像高78.8cm、針葉樹材寄木造(カ)、玉眼嵌入(現状)、漆箔(現状)。頭体幹部は前後二材矧ぎ、内刳のうえ割首とするか。後頭部中央に矩形の開口部があり、像内頭部正面側に以下の墨書銘を見出せる〔図6-3、4〕。寛文十戌年(数箇字分闕)□力大佛師        忠圓拝刻六月吉日銘記の年号である寛文10年(1670)の時点で、水戸藩領に属していた当地は2代藩主・徳川光圀による寛文の社寺整理の只中にあった。水戸藩による社寺整理はその1世紀半後の天保度にも行われ、9代藩主・斉昭の主導下に苛烈な廃仏政策が強行されたことが知られる。地元の伝承によれば、八溝山本尊像はこのとき破却の難を逃れるために陸奥棚倉藩領に移されたという(注30)。この本尊は明治20年代に寺に戻ったというが(注31)、その間の事情を勘案すれば、斉昭没後の水戸藩領では元治元年(1864)の元治甲子の乱、明治元年(1868)から翌2年にかけての戊辰戦争・弘道館戦争と内戦状態が続き、さらに明治5年(1872)の修験宗廃止令で八溝山は財政基盤を喪失した。追い打ちをかけるように明治13年(1880)には山火事で日輪寺の伽藍が焼失、本尊像は寺に還る機会を逸していたものと考えられる。― 392 ―― 392 ―

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