注⑴ 霊験仏をめぐる研究史は、杉崎貴英「研究書誌 中世の生身仏/霊験仏信仰とその周辺」(『日本文化史研究』49、2018年3月)に詳しい。関東の霊験仏信仰をめぐる論考としては、瀬谷貴之「鎌倉の霊験仏信仰」(加須屋誠編『図像解釈学:権力と他者』竹林舎2013年4月)がある。⑷ 鶴岡静夫『関東古代寺院の研究』弘文堂、1969年12月、pp. 465-500。同『古代寺院の成立と展⑵ 本間紀男『木彫仏の実像と変遷』大河書房、2013年6月、p. 105, p. 163⑶ 水野敬三郎「139 十一面観音菩薩像」『日本彫刻史基礎史料集成 鎌倉時代造像銘記篇』5、中他方、八溝山本尊にまつわる別の伝承は、現本尊は昭和戦前期に新造もしくは他所から移入されたとの伝聞を伝える(注32)。昭和新造・移入説を採るならば、旧本尊は明治の火災の時点で寺にあって堂もろとも焼失したか、あるいは棚倉動座後に行方知れずとなったかのいずれかが考えられよう。いま、寛文10年の銘をもつ現本尊が明治20年代に棚倉から還座したものと仮定するならば、少なくとも昭和新造説は成立しなくなり、現本尊は幕末・維新期の混乱を乗り越えた近世以前からの霊験本尊ということになる。ただし、銘文中に安置寺院を示す語がみられないことから、他所からの移入という可能性もなお残存する。この点については、寛文10年の銘文が造像銘か修理銘かという問題も含めてさらに詳細な検討が必要であり、現時点で即断することはできないが、今回の銘文の検出が、不明な点の多い現本尊像の来歴と八溝山信仰史の解明の一助となることが期待される。おわりに本稿では関東地方北東部・福島県南東部に現存する観音霊験像について、その造像の背景を縁起や伝承と関連づけて考察した。とくに水辺の空間としての内海世界と、狩庭としての那須野という、在地の人文地理的環境の特性を手がかりに、両地域において霊像と霊験説話の結びつきがみられること、その背景に説話伝承の管理者としての千葉一族や宇都宮一族の存在が垣間見えることを概観したうえ、当該地域の多くの檀像風彫刻の制作時期が13世紀に遡る可能性があることを、実査の所見を踏まえて指摘した。ただ、縁起における水中霊像感得や殺生人発心という説話類型と、尊像における素地の檀像風という仕上げ・構造の選択がいかなる必然性をもって接合するのかという根本的な問題について、十分に踏み込めたとは言い難い。この点の解決を当面の目標として、坂東札所および関連寺院における作例の調査研究に引き続き従事していきたいと考えている。央公論美術出版、2007年2月― 393 ―― 393 ―
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