⑻ 塩澤寛樹「鎌倉・明王院不動明王坐像と肥後定慶」『佛教藝術』242、1999年1月。同『鎌倉時⑿ 森田洋平「相馬郡と相馬氏について」『我孫子市史研究』2、1977年3月。湯山学「相馬御厨⑸ 市村高男「内海論から見た中世の東国」同監修・茨城県立歴史館編『中世東国の内海世界:⑹ 「坂東二十九番 観世音縁起」中野猛編『略縁起集成』5、勉誠出版、2000年2月⑺ 伊谷勇哉氏のご教示による。同「京都府大報恩寺像六観音のうち准胝観音像の造像工程に関する研究」『年報2017-2018』、東京藝術大学大学院美術研究科 文化財保存学専攻保存修復研究室、2018年3月。同「鎌倉時代におけるカヤ材を用いた制作工程に関する研究:大報恩寺六観音菩薩像のうち准胝観音像模刻制作を通して」東京藝術大学博士論文甲第939、2019年3月。⑼ 岡田清一『相馬氏の成立と発展』戎光祥出版、2015年10月、p. 106⑽ 柳晃「相馬御厨の四至の変遷について」『我孫子市史研究』2、1977年3月⑾ 深沢麻亜紗「笠間時朝の造像」栃木県立博物館編『中世宇都宮氏:頼朝・尊氏・秀吉を支えた⒀ 岡田清一「中世相馬氏における散在所領の支配形態:南北朝期、戦闘集団の分析を通じて」『我⒁ 若林繁「原町市・泉観音堂十一面観音立像の修理」『福島県立博物館紀要』15、2000年10月⒂ 野口如月『北相馬郡誌』北相馬郡志刊行会、1918年11月、p. 360⒃ 藤岡穣「439 十一面観音菩薩像」『日本彫刻史基礎史料集成 鎌倉時代造像銘記篇』16、中央公⒄ 井上正『日本の美術253 檀像』至文堂、1987年6月、pp. 76-78⒅ 相京晴次「寺社と文化財」酒々井町史編さん委員会編『酒々井町史 通史編』下巻、酒々井町、1987年3月、pp. 454-456、p. 509。なお、本作の調査に際し、酒々井町教育委員会よりご提供いただいた「町指定文化財修理解説書 千葉県酒々井町向根谷 吉祥寺」(1971年11月)のコピーおよび画像データを参照した。⒆ 明和8年(1771)板行の『三十三所坂東観音霊場記』巻七「第廿一番 常陸八溝」。翻刻は金指⒇ 『三十三所坂東観音霊場記』巻七「第廿三番 同国佐白」、注⒆前掲書、pp. 311-315 諏訪社を中心とする殺生功徳思想の形成過程を扱った近年の論考として、中澤克昭「『広疑瑞決集』と殺生功徳論」(二本松康宏編『諏訪信仰の歴史と伝承』三弥井書店、2019年1月)がある。 北口英雄「益子町・西明寺の千手観音菩薩立像について」『栃木県立博物館研究紀要』1、 山本勉「428 普賢菩薩像」『日本彫刻史基礎史料集成 鎌倉時代造像銘記篇』15、中央公論美術 浅見龍介「436 阿弥陀如来及び両脇侍像」『日本彫刻史基礎史料集成 鎌倉時代造像銘記篇』 鈴木啓「古代」『塙町史』1、塙町、1986年3月、pp. 111-112 塙町教育委員会編『時代(とき)の響き:塙町の文化財』塙町、1989年1月、p. 19開』吉川弘文館、1975年12月、pp. 288-306。霞ヶ浦・筑波山・利根川』高志書院、2007年12月代造像論:幕府と仏師』吉川弘文館、2009年2月、所収。名族』2017年9月と島津、摂津両氏:付 足助尼のこと」『我孫子市史研究』3、1978年3月。孫子市史研究』3、1978年3月論美術出版、2020年2月正三校註『西国坂東観音霊場記』青蛙房、1978年2月、pp. 304-308。1984年3月。同『栃木県の仏像・神像・仮面』随想舎、2019年8月、所収。出版、2019年2月16、中央公論美術出版、2020年2月― 394 ―― 394 ―
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