㊱ 笠木治郎吉研究研 究 者:横浜市歴史博物館 学芸員 𠮷 井 大 門はじめに本稿で取り上げる笠木治郎吉(1872?~1921)は、開港後国際都市へと発展し、時事刻々と移り変わりゆく横浜において生きた画家である。しかし、その名は長らく知られることはなく日本美術史の文脈からこぼれ落ちた、いわゆる忘れられた画家のひとりであった。その理由は、主に横浜で外国人を相手に売り絵を中心とした作画活動を行なっていたため、多くの作品が海外に渡っていったことが挙げられる。加えて、治郎吉没後の関東大震災、続く戦時戦火によって遺族の元にあった作品やイメージソースとなる下絵類のほとんどが、灰塵に帰し笠木家に残されたのは、顔写真1枚〔図1〕と下絵1点のみであったことである。それゆえに画業の全貌は一層謎を深め、治郎吉そして彼の作品は顧みられる機会はなくなり、徐々に忘れさられていったのである(注1)。しかし、近年、星野画廊で開催された「水の情景─画家たちが描いた自然」(注2)、同年開催の「もうひとつの明治美術」(注3)などの展覧会で紹介されたことを端緒に、徐々にその名が知られるようになった(注4)。稿者の所属する横浜市歴史博物館では、平成30年(2018)度に笠木家に残された一枚の下絵から地道な調査を行い収集した笠木家所蔵作品7点を展示・公開する「神奈川の記憶─歴史を見つめる新聞記者の視点」(注5)を開催する機会を得た。その後、平成31年(2019)、府中市美術館開催の「おかえり美しき明治」展(注6)では、まとまって作品が紹介され、治郎吉の水彩画作品の異色性が注目を集めることになった。こうした事情も相まって、令和2年(2020)~3年(2021)度にかけて、当館では笠木家所蔵作品の寄託を受けることになった。また、令和3年(2021)京都国立近代美術館で「発見された日本の風景」が開催され(注7)、長きにわたり集められた明治期の日本洋画の個人コレクションから治郎吉作品のほぼすべてが展示された。また巡回先の府中市美術館では、京都会場に展示されなかった出品作品もあり、徐々にではあるが画業の一端が明らかになりつつある。現在、約五十点の作品が確認されながらも、彼の生涯および画業のほとんどは未だ謎に包まれており、画業や履歴といった研究の進展はこれからといえる。本稿では、少ないながらも語られてきた笠木治郎吉に係る言説、笠木家の言い伝え、― 399 ―― 399 ―
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