および周辺資料を検証し、そこから浮かび上がる治郎吉の作家像とともに作品について述べるものである。しかし現在、多くの作品が確認されているにもかかわらず、治郎吉を語る一次資料の不足から十分に考証、論証がかなわず、推測の域を出ない点は多い。そのため、現時点で明らかにできることを可能な範囲で述べることを目的としたい。生い立ちについて笠木家は横浜に定住したが、いつ頃から横浜に住んだかは定かでない。笠木家の菩提寺である蓮光寺(横浜市・中区石川町)に残る過去帳によると(以下過去帳)、父は三四郎、母はマツといった(注8)。笠木家のルーツは、石川県・金沢と聞くところである。そのため、治郎吉の出生は横浜、または金沢とも考えられるが真偽の程は不明である。治郎吉の生年は、外交史料館に残る明治23年(1890)の『海外旅券勘合簿』に、「笠木治郎吉二十八歳」との記載があることから、文久3年(1863)と考えられる。ところが、過去帳には、「大正十年四月二十五日」に「五十歳二ヶ月」で没したことが記され、そこから逆算すると明治5年(1872)2月頃生まれとなる。三四郎の妻・マツ、すなわち治郎吉の母は、明治18年(1885)41歳で没していることから、生年は天保15年(1845)となる。仮に治郎吉が文久3年生まれであったとするならば、母・マツの年齢は19歳、明治5年生まれならば28歳となる。後者の場合、当時の年齢からするとやや高齢出産と考えられる。ともあれ、正確な生年については確信を得ないが、父・三四郎は明治31年没、母・マツは天保元年(1844)生まれといった過去帳そして墓碑銘の内容を勘案すると、江戸時代末から明治初期には横浜に住むことになったと考えられる。しかし、笠木家の動向には一向に足取りの掴めないことが多い。すくなくとも、笠木家は横浜で生計を立てていくことになったようで、過去帳で最初に確認できる笠木家の住所は、治郎吉の妹にあたるキン逝去時の明治18年8月「太田三春町一丁目三番地」、次に同年9月母・マツ逝去時も同住所であり、それに続けて「団子商」と記されている(注9)。はたして、団子商であったかどうかを確認する術はないが、その後、過去帳を辿ると笠木家は黄金町、西戸部町、日出町、初音町と横浜を点々としていることがわかる。― 400 ―― 400 ―
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