画業の開始時期どのようなきっかけで治郎吉は画業を志すことになったか、はっきりとしないが、幼少より絵を得意とし、蓮光寺に一時預けられ、幕末明治の浮世絵師、月岡芳年門下である山村柳祥(注10)に師事したという。柳祥は五姓田芳柳に師事したことから治郎吉は洋風表現を学習したと伝えられる。その確かなことは定かではないが、明治23年(1890)5月、洋画家矢田一嘯に伴われて渡米している。矢田は本名を乕吉、号を一嘯、 安政5年(1858)武蔵国久良岐郡三分村に生まれ(現横浜市金沢区)、明治13年(1880)頃横浜弁天通49番地に画塾を構えたという(注11)。矢田はそれ以前にも海外渡航経験があり、この二度目の渡航に際して矢田の伝記が記される『博多資料 』には、以下のようにある(注12)。〔…〕こうして矢田画伯は最初のパノラマを描き終って横浜市の自宅へ帰り静養していたが、それから凡そ半年の後再びアメリカに渡航することになった。今度の渡航は横浜市の貿易商神戸三九郎が東京浅草公園内のパノラマ館に米国建国史ともいうべき「南北戦争」のパノラマ画を輸入するため米国事情に通ずる矢田画伯に万事を委託したためであった、この時は画伯は門弟の笠置次郎(ママ)青年を同行した。笠置青年は横浜で納豆売りをしていた貧しい少年を画伯が拾い上げて将来立派な洋画家にせんと仕込み中のものであったという。笠置青年はこの航海中一日も欠かさず熱心に朝夕甲板に立出て太平洋の波濤の状態を熱心に写生し続けたということであった。この渡航は横浜の貿易商神戸三九郎の依頼により浅草のパノラマ館つまり日本パノラマ館に飾られるパノラマ画購入が目的であった(注13)。そして、納豆売りをしていた治郎吉を矢田が世話をしていたという。過去帳に残る住所の変遷が示すように笠木家が三春町や黄金町といった場所柄から勘案するに何かしらの日稼ぎの商売をして生計を立てていたことを推測すると、納豆売りをしていた少年という点に違和感はない。矢田の師弟関係が明治23年頃を境に築かれたとするならば、山村柳祥との関係を検討する必要もあるが、遅くとも19歳の頃を前後し治郎吉は画業を歩みはじめたと推測できる。この渡米に関して治郎吉の滞在中の足取りや、いつ頃帰国したかについて、5月22日に先の日本パノラマ館が開館しているため、矢田はそれ以前に帰国していることは間違いないが、明治27年(1894)4月に開館した九州パノラマ館で公開された《西南― 401 ―― 401 ―
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