戦争激戦図》が矢田と治郎吉の共作といわれることから、遅くとも前年には帰国していたと考えられる。滞在中の足取りは、先の『海外旅券勘合簿』の渡航先に「香港・マニラ」と記載されるが、サンフランシスコのパノラマ館の作品を買ったとすると太平洋航路で渡ったと考えられる。ところが「香港・マニラ」という行先には一抹の疑問を感ぜざるを得ない。その場合、横浜出向の船に乗り大陸側からサンフランシスコ航路に乗船して渡米したか、あるいは欧州航路で大西洋を経由し渡米したかが考えられる。しかし欧州航路の場合、ロンドンまで早くても約1か月、そこから大西洋を横断するのに約10日、アメリカ大陸に到着後西海岸のサンフランシスコまで移動し、パノラマ画の買い付けを済ませ、太平洋航路で帰国した場合そこから約2週間、その間移動以外の諸事を考えると矢田はほとんど、とんぼ返りのように買い付けを済ませ帰国したことになる。一方、太平洋航路を往復した場合でも1か月強ないし2か月弱となる。いずれにせよタイトなスケジュールであったことは間違いない。推察の域は出ないものの、治郎吉は渡米後矢田と別れ滞在を続けた可能性がある。この点についてはすでに猿渡氏が指摘しており(注14)、この滞在期の制作と思われる作品が現在残されている。油彩画の作例《横浜界隈の庶民のくらし》この渡米期の作品と考えられ、これまでくわしく紹介されてこなかった特異な形態の作品が残されている。それは《横浜界隈の庶民の暮らし》〔図2〕である(注15)。近年の明治期関連展覧会で知られることになった治郎吉作品は、水彩画作品がほとんどである。ところが本作の形態は、縦38.0×横426.0㎝の特異性もさることながら、キャンバスに油彩で描かれている。この特異な形態を日本で描いたとするのは考え難く滞米中の作とするのが適当と思われる。前所蔵者の伝えでは、1905年カナダのウィニンペグに開店したイートン百貨店のエレベーターのドア上部に設置してあったものを、同店のディスプレイ担当であった所蔵者の父親が1950年代に入手したという。1905年は明治35年であり、渡米時の明治23年とは大きな隔たりがある。イートン百貨店は1869年トロントに出店しカナダ全土に店舗を構え、大型商業施設として名を馳せた。トロント店には1886年にエレベーターが新設されており、治郎吉がいつ作画の依頼を受け、どこで描き、どういった経緯でイートン百貨店のトロントあるいはウィニンペグに飾られたかといった問題を含むが、治郎吉の履歴や画業において、記念碑的な作品であることは間違いないであろう。― 402 ―― 402 ―
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