鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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キャンバスを中央で接ぎ細長く仕立てられた本作は、画面左端下に「J.Kasagi」のサインが付されている。画面を右から見ていくと、天秤棒をかつぐ物売りや人力車、鳥追い、猿回し、赤ん坊を背負う女、凧揚げや竹馬、輪回しで遊ぶ子ども、大八車を引く男など、庶民の生活といった市井の人々を描く風俗描写である。描かれる場が横浜であるかは断定できないが、治郎吉の記憶に残る心象風景を巧みにキャンバスに構成したのであろうか。画面右半分が朝から昼の光に満たされ、左に進むにつれて暖色の夕日へと変化するなど、絵巻の表現形式を想起させ、デッサン力、独特の遠近法による奥行感を表現する技術、パノラマ的な絵画空間の構成が特徴である。例えば、的確な素描の上にわずかな着色やハイライトで表現された人物の描写は躍動感に富む人物表現の裏付けとなり、彼が油彩画にも長け、優れた技術を持ち合わせていたことを物語っている。また、立体感を抑えた平面的な描写は、壁画やパノラマ画を意識したものであったかと推測することができる。本作に見られる、遠景にある町並のシルエットを白や紫を涅色した絵具だけで巧みに表現する描写は、矢田よりは、数年先に登場する黒田清輝ら白馬会系の画風に近いものがあり(注16)、制作時期に大きな謎をなげかける。そして、ほとんど下書きのないまま、かなりの短時間で描かれていること、特異な形態である本作をわざわざ日本で描くことがあったかという点からも滞米時の作と考えるゆえんである。治郎吉の油彩画は本作を含めイギリス・マン島のManx Museum所蔵の《エリザベス・カランの肖像》〔図3〕の2点が確認されており、油彩の遺作例だけからでも、その技術の高さをうかがい知ることができる。水彩画作例と制作手法・特徴帰国後の治郎吉は横浜に定住しながら、横浜内を何度か転居しながら主に売り絵の水彩画制作を行っていたと考えられる。これまで、所在未確認ではあるが海外オークションに出品された作品などを含めると50点を上回る。作品の多くは、日本の風俗を主題とし、半切ないしそれより大きなサイズにカットした画紙に農村や漁村の風景と共に人物を大きくクローズアップする構図で描かれた水彩画である。農村や漁村の男女の鮮烈な表現が見る者を圧倒し、人物の肉体描写は重厚でアカデミックでさえあり、五姓田義松と同じく古典主義への憧れを窺わせる、との指摘もある(注17)。制作年代のわかる作品はほとんどなく、わずかにサインとともに年代が記されるものに加えて、稿者所属機関寄託作品については、画紙を裏からみると、ワットマン紙― 403 ―― 403 ―

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