鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
417/712

の透かしを確認できる作品もあるため、一部の作品については制作時期を、ある程度判断することができる(注18)。治郎吉の水彩画作品の特徴は、水彩画ではあるものの独特な光沢をみせるマチエール、画紙には細かな筆で軽快な筆致により絵具が塗られ、油彩とみ紛うほど濃密で入念な彩色が施されている。こうした重厚な絵肌を表現するために、治郎吉自身絵具の研究をかなりしていたようで、膠の効果を駆使して新たな表現を追求し油彩画的水彩表現を追求したとの指摘もある(注19)。作品を見る限りでは、着彩の濃い部分は治郎吉独自の絵具の配合によるもので、背景となる空などは水彩絵具により描かれている。構図は、画面のほぼ中央に水平線をとり、空気遠近法により遠い部分は薄く近い部分は濃く描かれ、巧みに三次元空間が表出されている。多くの作品は、農村や漁村の風景に人物を前景にクローズアップする基本構図をベースに制作されている(注20)。売り絵の制作となると、ある程度効率よく量産する体制が必要であったことは容易に想像がつき、こうした基本構図を構成するために、下絵を基にしてある程度パターン化された構図を描いたと考えられる。例えば、《田植えをする女》(かさぎ画廊)、《田植えをする女》(個人)〔図4、5-1〕を比較すると人物表現の肢体、顔貌表現といった点はほとんど同じ構図ながらも、背景や細かなモチーフの描き方を変えることで、場所や季節感の違いを表現している(注21)。つまりこのことから、イメージソースとなる下絵を基に主要なモチーフを軸に、附属的なモチーフとなる要素を描きこみ、その時の需要によってバリエーションをつけた作画を行っていたと考えることができる。笠木家の手元に残された作品類は戦災で灰燼と帰してしまったが、下絵類は後生大切にするよう言い伝えられていた。唯一残された下絵《朝やけ(雉)》〔図6〕には、画題とともに発注者とされる名前と「3 (山)第二」と書かれている。想像をたくましくするならば、下絵へのこうした書き込みは、季節や朝夕といった時間の表現の変化を治郎吉が持たせる記号であったと想像できないだろうか。土産物の売り絵という点からも治郎吉作品は、猟銃や投網、女性の頭に巻かれた手ぬぐい、たくし上げたられた着物の裾など、それまで外国人が眼にすることのなかった自然や風俗を克明に描き、彼らが日本という外地に対するまなざしの記憶と思い出を強く喚起させる装置となった一方、それを描く治郎吉のまなざしはあくまで、うちに向けられたプリミティブなものであったのではないだろうか。なお治郎吉は山村柳祥に師事し「光雪」と号したという。その根拠ははっきりしな― 404 ―― 404 ―

元のページ  ../index.html#417

このブックを見る