鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 笠木家からの聞き取り調査による。笠木家のいい伝えによると治郎吉の孫にあたる笠木和子氏⑵ 2003年4月~6月いが『毎日新聞』掲載記事にあると思われる(注22)。ところが「Soseki J.Kasagi」とサインが付された作品が確認され〔図5-2〕、ある時期に「Soseki」とも称していたようで今後の検証課題の一つである。肖像画の作例以上のような油彩・水彩の風俗画題以外に肖像画の作例をいくつか確認できる。一つは、《本間貞六郎純孝肖像》である〔図7〕。絹本・墨画、一部に胡粉を用い描かれた本作は、写真をもとに描かれたものであることは明らかで、描写は客観的、かつ写実的で、極めて精緻な筆致で対象を的確に捉えている。像主は代々、深谷宿脇本陣の主人を務めた家柄を持つ本間貞六郎純孝という。その表現は、五姓田派の肖像画と同様相を示し、五姓田派とのつながりを看守できる。正装し顔はやや右を向き、それに合わせるように上半身をやや半身にした姿勢で、墨の暈しで巧みに表現される皺や袴の陰影は像主の存在感を引き立て、右袖下には「J. Kasagi」のサインそして「1902」と記される。像主は明治44年(1911)に没していることから、明治35年67歳の寿像と考えられる。もう1点は、絹本・着色と思われる《フォン・エーデルスハイムの肖像》〔図8〕であり、水彩画制作以外に、こうした肖像画も積極的に制作していたことが確認できる。おわりに治郎吉を取り巻く状況はおそらく淡々と売り絵制作をする傍ら、明治33年(1900)の時点では、明治美術会の通常会員であったことがわかるが、作品発表はなかったとみられる。本稿では治郎吉の現存作品から作品を概観してきたが、その多くはまだ謎に満ちている。そして多くの曖昧模糊とした点をあきらかに仕切れなかったことは否めず、個々の作品の詳細について述べることはできなかった。今後、肖像画などの個別作例の制作背景や経緯、時代状況を細かに調査し、間隙を埋めていくこ必要がある。そして新たな作品と文献資料の新出を期待したい。は母・よし、から治郎吉について断片的ではあるが話を聞かされていたという。― 405 ―― 405 ―

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