⑼ 明治18年から治郎吉逝去までの間過去帳の記録から辿れる住所の変遷は以下のようになる。明治18年「太田三春町壱丁目」→明治35年「黄金町二丁目十番地」→明治39年「西戸部町五七一」→明治43年「日の出町一‐二七」→大正4年「初音町一‐一七」。⑶ 府中市美術館ほか(2003~04年)⑷ その間、治郎吉作品が出陳された展覧会は以下の通り、「近代日本の水彩画‐その歴史と展開」(茨城県近代美術館 2006年)、「田園讃歌‐近代絵画に見る自然と人間」(埼玉県立近代美術館 2007年)、「花とともに、日本美術500年」展(島根県立石見美術館 2010年)⑸ 会期:2018年11月23日~2019年1月14日。同展は、『朝日新聞 神奈川版』で2015年10月から連載がはじまり、同連載から二十話ほどを選び、その内容を実資料とともに紹介したものであった。また、連載内容を厳選し『神奈川の記憶(有隣新書83)』(渡辺盧延志著、有隣堂、2018年11月)として書籍化されている。⑹ 会期:2019年9月14日~12月1日⑺ 会期:2021年9月7日~10月31日⑻ 笠木和子氏のご子息、笠木英文氏は同家と治郎吉のルーツおよび作品の所在調査を現在に至るまで進めている。同氏が調査会社などを通して作成された系図と、稿者が調査した蓮光寺過去帳の内容には齟齬がみられる。また、過去帳と笠木家墓石に彫られる没年と法名にも異同が確認できる。調査報告書では、治郎吉にはマツという結婚相手がいたとされているが、蓮光寺過去帳には「三四郎 妻 マツ」と書かれている。墓石正面には父・三四郎の法名と左隣にはマツの法名が彫られていることからも、マツは治郎吉の母として考えるのが自然であろう。ただし、墓石向かって左側面には「明治廿二年七月 笠木三四郎 長男 治郎吉 建之」と彫られている。父・三四郎の没年は明治31年であるため、生前に建墓するかといった点もあるが、しかし過去帳を根拠とするならば、墓石後面に彫られる治郎吉・長女テルの没年を「明治廿年と丗年」を誤って彫っていることから、建墓を「丗年」の誤りと考えることもできる。墓石を「三四郎長男治郎吉」ととるか両名が併記されていることから「三四郎」と「治郎吉」がこれを建墓したとも解釈することができる。いずれにせよ、建墓の理由は、墓石正面に彫られる明治18年9月27日に、マツが没したことを建墓の理由に求めることはできないだろうか。一方、父・三四郎が明治31年に没した後、過去帳には「笠木政吉父 三四郎」と記されていることから、治郎吉には政吉なる兄がいたようである。過去帳に政吉没時の記録は現在確認できていない。明治35年2月、治郎吉の妹にあたるハルが没した時、過去帳には政吉ではなく「治郎吉妹 ハル二十五年」と記されることから、その間に政吉は亡くなったと思われる。ところが、明治22年の建墓であると、墓石に彫られる「長男 治郎吉」の内容に齟齬をきたすことになる。関東大震災などの墓石の倒壊による再建とそれに伴う彫り間違えという可能性も捨てられなくもないが、いずれにせよ検討すべき課題は多い。⑽ 治郎吉の山村柳祥への師事は笠木家の伝えもさることながら、「ある洋画家の系譜」『毎日新聞』1975年の記事によるところが大きいと考える。その後、日本画家鎌田緑方の息子で同じく日本画家であった方晴によると、治郎吉は「横浜に生まれ山村柳祥に師事、その関係で義松の作画に傾倒していったと思われる。」と記される(『第39回ハマ展1983出品目録』)。加えて、前記、回想には鎌田家には治郎吉の下絵類が所蔵されていたが戦災で焼失したという。⑾ 矢田一嘯 については以下を参照のこと『よみがえる明治絵画 修復された矢田一嘯「蒙古襲来⑿ 博多を語る会「矢田一嘯画伯の生涯」『博多資料(九) 』1957年8月絵図」』福岡県立美術館、2005年2月5日。― 406 ―― 406 ―
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