[形態]《馬頭観音坐像》〔図1〕 様似町・等澍院蔵 一軀 江戸時代後期文献の記述からは判断できないものもあったが、彫像あるいは彫像と推定される作例は72件、仏画あるいは仏画と推定される作例は25件あり、明らかに彫像が多い。しかし、北海道への携行の便宜を考慮すると彫像ばかりが積極的に持ち込まれたとは考えにくく、仏画も多数伝来しているであろうことは想像に難くない。特に、多くの宗派で営まれる涅槃会の本尊となる仏涅槃図は、北海道全域に作例が伝来している可能性が高い。2.調査報告三面八臂の坐像。像高43.5cm、木造の割矧ぎ造りで、頭部および両肩より先は別材とする。身体を金泥、馬頭と焔髪を赤色で彩色する。目、口、持物、蓮華座の框座の彩色は後補と見られる。髻に金属製の宝冠を付け、髻頂には馬頭を戴く。忿怒相で目を見開き、正面は三眼とする。胸前で馬口印を結ぶ。右手の持物は上から順に鉞斧、宝剣、最も下の右手は与願印である。左手の持物は上から輪宝、宝棒、最も下の左手は上向きに軽く握るので、かつて索もしくは数珠を執っていたと考えられる。蓮華座の上に右膝を浮かせて坐し、火焔光背を負う。銘は無い。等澍院(天台宗)は文化元年(1804)に江戸幕府により建立が決定された、いわゆる「蝦夷三官寺」のうちの一寺である。等澍院によると本像は、様似町に隣接するえりも町にあった競走馬の育成牧場・えりも牧場内の仏堂(昭和49年[1974]建立)に祀られていた二軀の馬頭観音像のうちの一軀である。えりも牧場は昭和34年(1959)に創立、7年後に一旦閉場し、昭和44年(1969)に再開場した。本像は再開場後、時期は不明であるが当時の牧場主が持ち込んだものと伝わる。牧場主は関西地方の出身で、株式会社えりも牧場も大阪市が本拠地であったため、関西地方から入手した像である可能性が高い。等澍院の僧侶が再開場後のえりも牧場の仏堂を定期的に訪れて読経していた縁により、牧場の経営母体の交代を機に、平成24年(2012)、本像を始めとする仏像、仏具が等澍院に寄進された。なお、本像以外に寄進された仏像、仏具はいずれも現代の作である。等澍院には鎌倉時代の作である聖観音菩薩立像(様似町指定有形文化財)をはじめとする古仏が伝来しているが、日高地方は〔表1〕のとおり、決して多くの仏像、仏画が伝来した地域であるとはみなされてこなかった。しかし国内有数の競走馬の産地である当地には、馬頭観音の碑や像を祀る牧場が多い。本像を近世の仏像が現代に― 413 ―― 413 ―
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