出典藤森伝来 区分形態須藤藤2伝行基作。源為朝の持仏で、為朝が背負って戦場に出たという伝説がある。のちに為朝の末孫・伊予松の山長沼家に伝来し、大正14年、同寺の本尊として迎えられ1明治29年6月21日、奈良法隆寺管長より下附された聖徳太子分身の像。境内の太子堂に安置。1明治33年3月、開基が本町に移住した当日より約一週間、広田外次郎方に寄寓し、開拓農家が放置していた掘立小屋を得る。春彼岸中日、越中より供奉した五百代の本尊阿弥陀如来の絵像を小屋内の壁に安置し説教を開始したのが本寺の始まり。岡崎城内にあったが、城の取り壊しの際に三河の岡本八右衛門の元に移る。後年再転し、由仁町三川の開拓指導者の元に移り、大正6年の渡道時に携行された。今は子孫の自宅裏の阿弥陀堂で月に一度開帳し、村民が参詣する。岡崎城では中国で造られた像と伝わっていた。胎内に数枚の願文とともに正徳3年4月の補修書あり。補修書「先祖念誓安置唐仏弥陀損再与」云々。彫2121森森藤藤寺寺寺寺寺森須須藤森2本尊。光背裏朱漆銘「文久二壬戌年八月 施主 アツタ御場所請負人 濱屋 與三右衛門」。当寺の他の像が本像と近い時期に和田浄慶(九右衛門)によって造立さ2慶応元年の造立銘がある大権修利菩薩倚像と一具と考えられる。像底底板朱漆銘「施主/支配人/福嶋屋/源蔵/元治三年/五月五日入佛」、衲衣垂下部背面墨書2像底底板朱漆銘「施主/支配人/兼/濱屋/与三右エ門/慶應元年/丑五月五日入佛/泰能代」、衲衣垂下部背面墨書銘「太元大士/御佛工/和田九右衛門/謹造 大衣垂下部背面墨書銘「傅東國師/佛工/和田九右エ門作/元治二丑春」、背面朱漆銘「施主/佐々木与エ門/大高傅九郎」参照文献一覧 [森]森川不覚『北海道の古仏』/[藤]藤木義雄『開道百年記念 北海道宗教大鑑』/[須]須藤隆仙『日本仏教の北限』/[宮]宮本正尊「天融寺所蔵阿弥陀如来立像並びに胎内納入文書について」/[寺]寺島展人「平成30年度 文化財総合調査業務 北海道石狩市における仏教彫刻調査報告書」/[釧]北海道立釧路芸術館『祈りの造形 地域の記憶 厚岸・国泰寺の200年』 書誌情報は本文末の参考文献一覧を参照。凡例 「尊像名」は、参照文献の記述から筆者が判断し統一的な名称を設けた。姿勢が判明した作例は「立像」「坐像」などとしている。「形態」は彫像には「彫」、彫像と思わしき像には「彫ヵ」、仏画には「画」、仏画と思わしき像には「画ヵ」と記した。「時代」は表記を統一せず、各参照文献の記述に準じた。「由来など」には各参照文献の記述を要約し、個人の氏名が書かれていた場合、個人情報への配慮として「個人蔵」や「某氏」とした。銘がある場合は記した。「出典」には参照文献の筆者名の頭文字を記した。全体を通じて、1件の作例に対し複数の参照文献があり、筆者独自の見解が含まれる場合は、文頭に筆者の頭文字を[ ]で括って示した。現在の 所在地所蔵先[道央・空知] 7件岩見沢市阿弥陀寺阿弥陀如来像三笠市個人蔵十一面観音菩薩立像美唄市明勝寺阿弥陀如来立像教円寺阿弥陀如来像澄心寺聖徳太子孝養像永教寺阿弥陀如来絵像深川市由仁町個人蔵阿弥陀如来像[道央・石狩] 46件本願寺札幌別院札幌市新栄寺恵庭市天融寺阿弥陀如来立像能量寺親鸞影像阿弥陀如来立像観音菩薩立像勢至菩薩立像法然上人坐像善導大師坐像両大師像誕生釈迦仏立像三十三観音像大心寺阿弥陀三尊来迎図阿弥陀三尊来迎図釈迦如来坐像文殊菩薩騎獅像普賢菩薩騎象像僧形坐像 (二軀)達磨大師坐像大権修利菩薩倚像僧形坐像正眼寺三十三観音像石狩市如意輪観音坐像菩薩立像賓頭盧尊者坐像地蔵菩薩立像阿弥陀如来立像達磨大師坐像大権修利菩薩倚像伝東国師(道元)坐像阿弥陀如来立像龍澤寺地蔵菩薩立像妙見菩薩立像難陀竜王立像女神立像秋葉権現立像三十三観音像春光寺釈迦如来坐像千手観音菩薩立像[道央・後志] 12件精周寺大日如来像宗円寺五百羅漢像小樽市三社神社浪切不動明王像潜竜寺毘沙門天王像寿都町菩提院不動明王立像表1 道央・道北・道東地域に伝来する近世以前の仏像、仏画時代尊像名 鎌倉~室町時代奈良国立文化財研究所・田沢垣氏は鎌倉時代の作と評した 画 彫 画 阿弥陀如来御絵像彫 木仏(本尊)画 親鸞影像画 聖徳太子影像画 七高僧影像画 達如影像大聖不動明王像 童子像(矜羯羅像か) 童子像(制咤迦像か) 彫建保2年画 彫江戸時代中期~後期彫江戸時代中期彫江戸時代中期彫江戸時代後期彫江戸時代後期彫 彫江戸時代後期彫江戸時代後期、幕末頃~明画江戸時代後期画江戸時代後期~明治時代彫江戸時代彫江戸時代彫江戸時代彫江戸時代か彫江戸時代か彫江戸時代か彫江戸時代か彫江戸時代後期、幕末頃~明彫江戸時代後期、幕末頃~明 三十三観音像に一体加わるように安置される。作風は三十三観音像と同一。治時代か 彫江戸時代 彫江戸時代後期か彫江戸時代後期~明治時代か 彫文久2年頃治時代か治時代か彫元治三年・慶応二年頃彫慶応元年彫元治2年彫元治元年以前彫江戸時代後期 幕末頃か彫江戸時代後期 幕末頃か彫江戸時代後期 幕末頃か彫江戸時代後期 幕末頃か彫江戸時代後期 幕末頃か彫江戸時代後期 幕末~明治彫延宝九年か彫南北朝時代(14世紀後半) 七条仏師の康俊に近い面相。時代か彫江戸時代(前期)彫 彫 彫ヵ 彫鎌倉時代1明治27年10月、管轄本山・増上寺より下附される。2所蔵者は戦前に外務省官吏を務めていた。1946年4月に天津から引き揚げ、その後京都に足を運び、本像の以前の所蔵者から北海道に祀るよう勧められた。2古くには坂田の某家に「念珠仏」として祀られていた。大東亜戦終末直後、某造船会社が所蔵。美唄市の某氏の仲介によって当寺に移された。た。1明治3年2月、現如が京都を出発した際に奉持した。11111222明治4年の本堂建立時に本山より下附された。明治19年、成田山の信者がこの地に一千余名居住していた。信者は本山より念持仏として分体下附を請願。明治22年7月に入仏式が営まれた。明治38年に開山和尚・新羅天融が京都の仏師・田中文弥より譲り受けて本尊となる。田中文弥による修理の際、胎内から3枚の願文が発見された。[須・宗]伝安阿弥快慶作。[宮]田中が所有する以前の来歴は不明だが、一説には、京都の由緒ある某寺院より譲り受け、損傷が著しいため田中に修理を依頼した。新羅が本像を求めて上京したのは明治36年末から37年にかけての頃と思われる。1明治8年7月、初代住職・曽我信彦が本像等を本山より賜り、堂宇を創建し真宗仮説数所と公称し、ここに本像を安置した。1本尊。元治元年5月に酒井藩が建立した寺院。明治25年6月の『什物簿』に本像について「萬延元年中旧本寺大督寺ヨリ寄贈作者不詳」と記されている。大督寺は、天正2本尊脇侍。明治25年6月の『什物簿』に本像について「明治十一年七月木村円吉寄附」とある。22明治25年6月の『什物簿』に本像について「明治廿五年六月木村申松寄附」とある。22明治25年6月の『什物簿』に「両大師 厨子入坐像丈六寸 二軀 明治八年五月富井佐古吉寄附」とある。著者の調査では所在未確認。1明治25年6月の『什物簿』に本像について「開山俊廊寄附」とある。 1明治25年6月の『什物簿』に本像について「萬延元年六月旧本寺大督寺ヨリ寄贈」とある。箱蓋表墨書銘「恵心僧都親蹟三尊来迎図 大心寺宝物」、箱底墨書銘「旧本尊 箱蓋表墨書銘「来迎佛 大心寺」 像の前に位牌が数本あるうち、中央のものに「前総持当寺 開闢 開山 光峰玄明大和尚膳師」とあり、当寺開祖・光峰玄明の像として造立された可能性がある。当 9年に庄内藩酒井家の菩提寺として山形県鶴岡市に建立された寺院。大督寺ヨリ寄贈 明治廿三年十月 随徒福嶋龍總 箱造寄附」三尊像。寺の創立は文久2年。れていることから、本像も同作である可能性がある。銘「達磨大士/佛工/和田九右衛門作」之」銅造。厨子裏朱漆銘「于茲奉安置銅像之弥陀如来者元治元年甲子中秋我徒松前蝦夷之際於阿津太/之海自漁之日不圖懸揚於鮭網之中尊躰也嗚呼何因縁哉于直奉頂禮瞻仰之處/裾脚磨滅而尊影不全屢雖思惟不識經幾星霜案往古在火宅之郷而羅祝融乎將/漂流波濤為魚鱗救済裾脚海底遺玉フ呼弥陀智願海深廣無涯底几俗所不可測實/不可思議之至也依這般令佛工補鑄其不具座光佛龕等造備其来由記以吾家代/々欲奉渇仰伏冀納受蘋繁之志趣使愛愍摂取為二世安楽云尓/維時慶應三年丁卯六月記焉/感得主 平田與三右衛門/佛師 和田浄慶」 本像も和田浄慶(九右衛門)によるものか。 2厨子扉裏墨書銘「奉納 アツタ 池上又兵衛」 本尊。台座底板墨書銘「辛 延宝九年」三尊形式。台座裏墨書銘「佛工 和田九右エ門」1出羽羽黒山の本尊であったのを、明治7年に山形県東田川郡大綱村湯殿山大日坊に遷坐し、明治20年に当寺の本尊に迎えたという。当寺はかつて松前にあった。本像は盛岡から招来したと伝わる。菅江真澄『ちしまのいそ』よると本像は松前の地で造られたという。昭和37年、西村公朝(京都芸術院国宝修理所所長)は、五百体のうち15体は桃山期の作、ほかは徳川中・末期の2グループに分けられるとした。半数は盛岡あたりの仏師を招き松前の地で造られたのではないか。 張碓の崖がときどき崩れて人命を奪っていたため定山が自ら刻んで安置した。のちに当寺に移された。本尊。当寺の祖先・山本勘助が厚く帰依し代々祀ってきた。末孫・伴七が出家し光明寺(西尾市針曽根町)に入寺した際に本像を奉持。大正13年6月2日の夜、開基住職 並に光明寺住職(当寺開基住職の父)に「我北方の守護神、毘沙門天王なり。北方の地に縁あり。仙法弘通と帰依する人を守護すべし。直ちに小樽説法所に移さしむべし」と毘沙門天王の夢告があったので光明寺住職は早速祖先伝来の毘沙門天王像を奉持し来樽し、当寺に安置した。 秋田県の佐竹右京の持念仏であったが、真言宗祈祷場で元山の寺(寺号不詳。俗に「元山の寺」と称された)に附与され、後年、廃仏毀釈で山寺取り払いの際に某氏がもらい受け、明治33年に寿都に来た折に当院の本尊に奉納した。由来など森/須/藤/宮藤― 419 ―― 419 ―
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