鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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1-2 日名子の陶彫への挑戦上田貴久丸(1900-1968)による復元作である。というのも、日名子による原作の〈荒魂像〉が武力を象徴すると解釈され、昭和20年(1945)に発令された神道指令に従い、昭和21年(1946)に破壊のうえ撤去されたからである。破壊された陶片は地面に埋められたという。同じ理由で碑正面に刻印された「八紘一宇」の碑文も削除され(注2)、名称も「平和の塔」へと改められた。しかしその後、〈荒魂像〉の復活を望む声が高まり、復元像の制作が決定され、すでに死去していた日名子に代わって上田に制作が託された。上田への制作依頼の経緯は不明だが、上田が泰山製陶所の所在地である京都市に在住という点が関係したかもしれない。上田は泰山製陶所と連携しつつ復元像を昭和37年(1962)に完成させた〔図3〕。掲載の写真は泰山製陶所の創業家(池田家)に残る紙焼写真である。日名子と上田との間には、造形上で若干の相違があるが(例:盾に刻まれる八咫烏が鶏に変更されている等)、その分析は別稿に譲る。日名子は現在の大分県臼杵市の出身。大正2年(1913)に東京美術学校彫刻科塑像部に入学、同郷の朝倉文夫を師と仰ぎ、朝倉のもとで彫刻の基礎を学んだ。その後、朝倉と決別して友人らと在野の彫刻団体「構造社」を結成し、「彫刻の社会化」や「彫刻と建築の融合」を目指した(のちに退会)。日名子は素材への関心も高く、大理石・石膏・ブロンズなど既存の素材に飽き足らず、関東大震災直後にいち早くセメント彫刻を発表するなど、彫刻素材へ挑んだ。陶彫は日名子が作域の拡大と新たな作風の可能性を模索した挑戦の一つで、日名子は1930年代から1940年代には陶彫への関心を高めていた。日名子が陶彫の協力先に選んだのが泰山製陶所である。昭和7年(1932)に制作したレリーフ《長崎時代》〔図4〕(日名子のレリーフで最大:高さ約3m×横約8m)がその最初で、本作は新海竹蔵による陶片レリーフ《診断・予防・治療》と対になる作品であり(注3)、両作とも東京大学医学部研究棟外壁に現存する。このように日名子は、泰山製陶所と協力して作品を制作した実績があったものの、《四魂像》に関しては同所とは別の製陶会社(貴生川陶業合資会社)に依頼した(後述)。泰山製陶所は大正6年(1917)に池田泰山(1891-1950、本名・泰一)が京都で創業した製陶会社で、京焼(清水焼)の流れを汲む。泰山は現在の愛知県知多郡阿久比1-3 泰山製陶所― 423 ―― 423 ―

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