へ社名を変更したのは昭和13年(1938)5月25日である。峯治はかつて泰山製陶所に勤務した技術者で、体調不良の泰山の代理として同所の所長を務めたこともある人物で、泰山からの信用も篤く、卓越した製陶技術を持ち合わせていたことが推測される。前述の日名子が手掛けたレリーフ《長崎時代》を手掛けたのは、泰山製陶所に勤務していたころの峯治である。同作の制作過程を通じて、峯治と日名子の信頼関係が構築されたと推測される。峯治の遺族にあたる新美家には、《四魂像》に関係する紙焼写真や新聞記事切抜が残されている。新聞記事切抜は掲載紙と掲載年月日が不明だが、見出しや写真から《八紘之基柱》に関係することが明らかである。そして貴生川陶業合資会社は《四魂像》のみならず、家形埴輪をモチーフとした灯篭(名称は「八紘灯篭」)や、《八紘之基柱》の敷地内に設置された手水舎も手掛けていたことが新聞記事の記述から明らかになった。この八紘灯篭は西都原古墳群(宮崎県西都市)から出土した家形埴輪をモデルとしている。峯治の遺族にあたる新聞記事の見出しには、「八紘之基柱 飾る四魂像と燈籠 一世一代の榮光に感激 信樂燒の新〈原文ママ〉見氏が勤作」「信樂燒の神髄發揮 古典味豐かな八紘燈籠 新美翁感激の勤作續く」「八紘之基柱 四魂像殆ど完成 燈籠は全部宮崎へ發送」などセンセーショナルな文字が躍る。記事は「日名子實三氏が設計を引受け、この製作には時局に鑑み一切金屬を使用せず陶器をもつて充てることになり氏と親密な關係にある信樂燒建築材料工藝陶器製作家新〈原文ママ〉見峰治氏(六〇)─滋賀縣甲賀郡貴生川陶業合資會社代表─に製作方を委嘱した」(注6)、「日名子氏直接指導によつて新美氏作品はいづれも信樂工業組合謹製の原土により釉藥は李朝時代に喧傳された伊良保を用ひ」と伝え、日名子の直接指導の下に四魂像・八紘灯篭・手水舎などが制作されたことがわかる。掲載の写真は、〈和魂像〉の胸部の陶片を組み合わせている場面を捉えたものである〔図5〕。このように《四魂像》の陶片は、貴生川で組み合わせられた後、宮崎へ運搬されたと推察される。陶片は1体の独立した像としてではなく、頭部・胸部・腹部・脚部などいくつかの部位に分けられ、宮崎で組み合わされた可能性もあるが、詳細は不明である。以上のことから、日名子原作による《四魂像》の陶片は、貴生川陶業が製造した信楽焼であると結論づけられる。なお、日名子と貴生川陶業の共作の事例として、昭和17年(1942)ごろに制作された塚原ダム(宮崎県東臼杵郡諸塚村)の《殉職慰霊碑》がある(注7)が、本稿では割愛する。― 425 ―― 425 ―
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