鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 本田親徳(原著者)/鈴木重道(編纂校訂)『本田親徳全集』山雅房、1976年。鈴木重道『本田⑷ 『宮崎日日新聞』1962年9月23日7頁。⑸ 『官報』第2457号、印刷局、1935年3月14日、10頁。⑹ 記事中の「新見峰治」は誤記、正しくは「新美峯治」。⑺ 2023年7月30日に現地調査。⑻ 厳室の壁面に日名子が制作した8枚の石膏レリーフが存在するが、本研究の考察対象としない。⑼ 泰山製陶所では所内で独自にさまざまな釉薬を製造し、それぞれに「伊良保」「象牙」「紅雲」「利⑵ 昭和40年(1965)に碑文を復元。⑶ 泰山製陶所と新海竹蔵との共作として、東京大学附属総合図書館のメダイヨン(1929年)、国謝辞執筆にあたり、資料をご提供くださいました関係者の皆様に心よりお礼を申し上げます。池田泰山のご遺族、新美峯治のご遺族、日名子実三のご遺族、中川智視様、宮崎県宮崎土木事務所、宮崎県教育委員会、宮崎県文書センター、九州電力株式会社、西技工業株式会社。上の困難もあるが、組立原図と陶片の照合作業が進めば、《四魂像》の制作過程のさらなる解明に近づけると筆者は考えている。まとめ「平和の塔」の内部に備えられた倉庫内に残された約260枚にのぼる陶片は、日名子実三が手掛けた《四魂像》に関係するもので、貴生川陶業が製造した。陶片はおそらく予備として制作され、使用されない状態まま現在に至るまで倉庫内に置かれていたと考えられる。日名子の遺族、池田家、新美家には、それぞれ《四魂像》に関する一次資料が残されている。これらを互いに照合することで、さらなる研究の深化も期待できる。今後も倦まず弛まず調査を継続したい。結論としては、戦前の日名子による原作(4体)は、貴生川陶業による信楽焼、戦後の上田による〈荒魂像〉の復元作(1体)は、泰山製陶所による京焼(清水焼)となる。また、四魂像組立原図は《四魂像》の設計図であり、これに従って各像の陶片がそれぞれ組み合わされたと結論づけられる。親徳研究』山雅房、1977年。立公衆衛生院のメダイヨン(1938年)が現存する。昌」などの固有の名称を与えた。― 429 ―― 429 ―

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