鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
446/712

㊴ 福建莆田画家趙珣の研究─日本の黄檗絵画と文人画における位置付け─研 究 者:日本学術振興会 外国人特別研究員(東京大学)  孫   愛 琪趙珣(生年不明~1646)は福建莆田出身の布衣画家であり、初名は趙璧、趙之璧があり、字を十五、枝斯とし、号には連城、鼎玉、隺聲などが確認される。彼は晩年に仏教に帰依し、地元の僧侶とくに渡日の黄檗僧たちと親しく交際した。そのため、江戸初期から黄檗僧の来日に伴い、趙珣の作品も数多く日本にもたらされた。それによって日本で名を知られることになり、明治期に至るまで彼の作品は輸入され続けていた。江戸中期の南画家彭城百川が編著した『元明画人考』の記載を嚆矢とし、のち京坂に集まる文人画家頼山陽、田能村竹田らは趙珣を高く評価し、また江戸を中心に活動した谷文晁、市河米庵らは趙珣の作品を収集して模倣作をも残している。明治期に至っても瀧和亭、富岡鉄斎らの南画家によって模作が続けられた。趙珣は日中美術交流史上、注目すべき画家と言えるが、彼の生涯、交遊、画業などについては未解明の部分が多く、江戸絵画との影響関係についても確実な議論は未だ進展していない(注1)。そこで本研究ではまず、閩中文壇を主導する曹学佺、徐等の士大夫文人たちの文集から趙珣の交遊や活動軌跡を考察する。次に、日本に多く伝存する趙珣の作品を実調査し、文献と照合しながら百拙如理などの渡日黄檗僧との交遊関係を明確にし、彼の作品が江戸初期以降、日本に渡来し続けた経緯を明らかにする。最後に趙珣作品を整理分析し、「蘆雁図」「蔬果図巻」などの花卉雑画は上方の頼山陽、田能村竹田、浦上春琴の間で人気を得て明治期まで流行していた、「蜀桟道図」のような大観山水画は関東の谷文晁周辺で受け入れられた受容の実態を分析する。また、趙珣の唯一現存する仏画「苦行釈迦像」については、田能村竹田の一連の「白衣観音図」との線描の親近性を指摘しつつ、その西洋的な明暗効果を取り込んだ肖像画的な表現が、黄檗僧と宣教師、仏画と西洋宗教画との接点を示す17世紀初期福建絵画の多様性と複雑性を提示する。一 曹学佺主導の閩中文壇における趙珣の活動趙珣の文集は現存が確認されておらず、彼自身による題画詩のほかは『莆風清籟集』『閩詩傳初集』等の地方文集類に二、三首が収録される程度に過ぎない(注2)。その一方で、明末福建の文壇いわば「閩中文壇」を主導した曹学佺、徐、陳鴻、許― 433 ―― 433 ―

元のページ  ../index.html#446

このブックを見る